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「柳宗元の三絃」の誤りと訂正

「柳宗元の三絃」の全文解説を取り組んでいる、今になって気がついたのですが、この「柳宗元の三絃」の文章は、唐代の文章ではなく、閲読者である潘之恒撰の明代のものであると判りました。詳しくは、この全文解説の前文をここに載せて、訂正したいと思います。また改めて明の「潘之恒の三絃」として前文解説をアップします。それまで「柳宗元の三絃」は閉鎖したいと思います。

以下、全文解説の前文

ある時、私の演奏している楽器「秦琴」の歴史を調べている中で、偶然に柳宗元撰の『絃子記』と云う小さな著作を見つけた。どのように見出したのか今ではまったく憶えていないが、確か「国会図書館」で別な書物を探している最中だと、記憶している。「絃」と云う文字が気になって中を見ると面白いことに絃楽器の話しであった。唐の時代の楽器の研究は、林謙三氏や岸辺成雄氏をはじめ様々な日本、中国の研究者によって調べ尽くされている分野であるが、この『絃子記』に記されている話しは今迄のものとは少し違っていた。とくにその中でも唐の時代には存在していないとされている「三絃」の記述が気になり、私なりの解釈で一年程前からその一部をホームページに載せていた。

しかし、今になってこの『絃子記』全体が本当に柳宗元の撰なのか少し疑問が出て来た。

この『絃子記』不分巻は『唐人百家小説・偏録家』と『欣賞編ー明・沈津、潘之恒閲』に収められ、我が国では、『欣賞編』が「前田育徳会」「公文書館」 「東京国会図書館」に、『唐人百家小説』は「逢左文庫」に収蔵されている。ただこれらの四書は同一の版木から刷られた可能性が高く、「前田育徳会」以外は確認済みである。また『四庫全書』の集部・『明文海』にはこの『絃子記』中から「三絃」の記述だけを抜き出したものが、少し文章を省いた形で、潘景升(景升は『欣賞編』の校閲者である潘之恒の字)として収められている。



『絃子記』は、唐・柳宗元撰、潘之恒閲とされていて、一応柳宗元の撰としているが、その中に校閲者である潘之恒の文章も混じっている。初めに「箏郭師」の一編があり、次に校閲者である潘之恒撰とする「附馬手樂」、それから撰者名が記されていない「提琴」、そして最後にこれも又撰者名が記されていない「三絃」の、四つ話しからなる小さな著作である。この為、柳宗元が『絃子記』と云う書物を著したのか、また後になって別々になっていたこの様な絃楽器の話しを一つに纏めてそれを『絃子記』としたのか、はっきりしない。もし後者であるとしたら、潘之恒撰の「附馬手樂」が入っているので、恐らく校閲者である潘之恒であると考えられるし、潘之恒撰とする「附馬手樂」以下の撰者が記されていない「提琴」「三絃」も上記『四庫全書』にあるように、潘之恒が撰したものとも思えて来る。

というのは、宋・晏殊(字叔)の『類要』一百巻・巻二十九の「絲音」に「柳子厚以箏郭師墓誌云・・・・・・」【柳子厚(柳宗元)箏郭師の墓誌を以て云う・・・・】という一文が記されていて、それは『絃子記』の「箏郭師」の中の文章と一致している。すなわち「箏郭師」は宋の時代明らかに柳宗元の文章とされていたのである。晏殊の生没は、991年~1055年なので柳宗元のほぼ200年後の人である。たかだか200年で著者名の錯誤が起きるとは思えない。従って『絃子記』中の「箏郭師」一編は確かに柳宗元の文章なのである。

「箏郭師」一編は確かに柳宗元の文章なのであるが、一編しかなかったので、それ故潘之恒が他の三編を撰して加え、それを柳宗元撰の『絃子記』として『欣賞編』に組み入れたことは多いに考えられる。柳宗元撰の『絃子記』ならば、「箏郭師」の次に、潘之恒撰の「附馬手樂」が一編だけ混ざっている事は非常に不自然であるし、『四庫全書』には『絃子記』中の「三絃」を明代の文章として、集部・『明文海』に収めている。また『絃子記』を収めている一つ『欣賞編-明・沈津』については、「四庫提要」によれば頗る評判が悪く、著者名の錯誤も多いとしている。『絃子記』謂う所の「三絃」は唐の時代に存在していた可能性はある。勿論現在の三絃に繋がるものではないが。しかし「提琴」と謂う楽器が唐の時代に存在していた可能性は殆どない。このようなので、「附馬手樂」以下の「提琴」も「三絃」も校閲者である潘之恒の撰と考えた方が合理的であろう。

即ち『絃子記』は潘之恒が、柳宗元撰の「箏郭師」と潘之恒自身の他の三編とを合わせて、柳宗元撰として『欣賞編』に組み入れたものなのである。
もう一つ『絃子記』を収めている『唐人百家小説』は我が国には「前田育徳会」と「逢左文庫」に収蔵されているが、『絃子記』を収めているのは「逢左文庫」に収蔵されている『唐人百家小説』だけである。共に撰人未詳であるが、少なくとも「逢左文庫」のものは当然『欣賞編』よりも後の編纂ということになろう。

したがって今回取り上げる「三絃」は「柳宗元の三絃」というのではなく「潘之恒の三絃」であり、元、明、清、現代と承け繋がれている今日の中国の「三絃」と同種類の楽器のことについて記した文章なのである。

潘之恒は、字景升といい、徽州の人である。嘉靖 35年(1556)に生まれ、天啓 2年(1622)に亡くなっている。嘉靖年間に中書舎人になっている。商人の家に生まれているが、若い時から汪道昆、王世貞に師事し、湯顕祖、屠隆等多くの知識人と交遊があった。戯劇の演出も手がけ、嘉靖~萬暦年間の多くの著名演者と交わりその伝記も残している。とくに妓女について書かれたものが多く、彼の著作『恒史外紀』には彼女達についての多くの文が残されている。著作としては『亘史』『鸞嘯小品』『渉江行』『黄海』等ある。詳しくは、韓結根氏の『明代徽州文学研究』の第六章・二節を参照されたし。

今、この『絃子記』中の「三絃」を潘之恒によって記されたものとして読み、また判る限りの解説をして、明の時代の絃楽器の状況の一端を垣間見、またその当時を生きた潘之恒の音楽感にも触れてみようと思うのである。