原子力発電のこと

  • 2011年6月12日 12:40

 先日、作家の村上春樹氏の発言と、評論家の寺島実郎氏の発言の両方を聞きました。僕はまったく村上春樹氏と意見を同じくしますが、評論家の寺島氏は原発推進の意見でした。寺島氏が電力会社の広告塔でなくご自身の確たる意見でしたら、そのような見識ですので、とやかくいうものではありません。

 

ただ、僕は、原発は経済や政治とはまったく別次元の、人類が地球上で生きてゆく、その生存の行く末の問題であると考えています。寺島氏の云われた様に、平和利用と云う美辞麗句のもとに、原発に経済を絡ませた途端、村上春樹氏が云われた効率の罠に陥ることは目に見えています。その挙げ句の原発事故です。原発に経済を絡ませては絶対にいけません。また、脱原発を政治に利用しては絶対にいけません、政治が絡んだ途端、その本質が見えなくなるのは必定です。

 

そこで、先の朝日新聞の原発のアンケートについて考えてみました。「今の電力の30%が原子力発電です」、等という前振りの付いたアンケートでしたが、なぜこんな前ぶりを付けたか理解に苦しみますが。その結果は、原発を推進してゆく意見と、推進はしないが原発は維持してゆく意見とを合わせると約60%位になっています。原発から撤退する意見は15%位でした。

 

しかし、よく考えれば、この原発を賛成している人達は、原発が好きということでは当然ないでしょう。要するに、原発がなくなれば電力不足に陥り、不便になり、産業が停滞し、日本が、沈没してしまう、とそんな不安からだと思いますが、そこには、代替エネルギーのことは頭にないと思います。もしあったとしても、そんなものでは電力は賄えない、という莫とした考えからでしょう。

ただ、僕もふくめて、その人達は代替エネルギーのことをちゃんと検証したことがあるのでしょうか。実は、この「原発でなければ電力は賄えない」という考えは、「原発の安全神話」と一緒に、私達に刷り込まれてしまった幻想ではないかと思いますよ。

 

「脱原発」の論陣を張れない、マスコミもジャーナリストもまったく情けないですが、百歩譲って、いまジャーナリストが全力でしなければならないことは、その検証です。いま代替エネルギーはどのような可能性があるか、その検証です。それにはこのようにしなければなりません。

 

代替エネルギーに可能性を求める「脱原発」の科学者と、代替エネルギーに懐疑的な「原発推進」の科学者の双方の見解を検証しなければなりません。利権が絡んでいる非良心的な科学者は論外ですし、昨今のマスコミによく登場している軽薄な無責任な科学者は論外です。当たり前ですが、その両者の間には必ず齟齬があります。その齟齬こそが肝心なところです。その齟齬を徹底的に検証するのです、できれば双方の科学者を交えて、同じテーブルで徹底的に議論をするのです。しかし、そこに科学者の間違ったプライドやエゴを持ち込んではなりません。相手の見解を打ち負かそうという底の浅い議論になってはなりません。自身の足りなさを認めそれを踏まえた上での創造的な議論にしなくてはなりません。この日本の各大学には必ず、本当の意味での権威ある良心的な科学者がいるものです、それを探し出すのもジャーナリストの役割です。ジャーナリストは誇りある職業なのです。その誇りをもう一度取り戻して下さい。

 

そして、その検証の結果の真実を私達に知らせて下さい。それから、私達に、この国のゆくすえを決めさせて下さい。私達の今、最低限出来ることは、そのような検証なしにこのような国家の行く末を問うアンケートに参加してはいけません、ただイメージだけでは絶対にいけません。

 

僕も含め、15%の「脱原発」の人達は、たとえ電力が足らなくなっても原発のない社会を目指してゆこうと云う思いの人達であろうと考えますが、そうではない人達には確たる検証の真実の情報を知らせて下さい、そのうえで私達国民がこの国家の行く末を決めたいのです。一部の、テレビやマスコミに登場している評論家と云われている人達の言動に惑わされては行けません。国民一人一人が自立して意見を持つことが、いま一番大切なことです。

 

このような、原発事故があっても尚、目をつぶって幻想のような現実に流されてゆくなら、もはや魂のぬけがらと云わざるを得ません。そんな日本人になってはならないのです。この緑あふれる、水の島を放射能でこれ以上穢しては絶対にいけません。はるか未来までその廃棄物を残すことも絶対にいけません。気がついてみれば、この狭い日本に五十数基の原発ができてしまいました。

 

今回の事故は、やれ東電の責任だとか、政府の責任の人災だとか、マスコミは騒いでいましたが、僕はその責任の第一は、いままで原発を推進し、また見過ごして来た、マスコミも含め、僕たち国民全員にあると思っています。そのように考えなければ、東電の責任だとか、政府の責任の人災だとか云って、私達国民がこの事故から目をそらしてしまうことになりかねません。逃げては行けません。目をそらしてはなりません。しっかりとこの事故に向き合い、原発に関して自分なりの考えを持たなくてはなりません。その為には、確たるエネルギーの検証が、そしてその情報の開示が絶対に必要です。マスコミは戦前の過ちを繰り返してはなりません。その検証をした上で、「脱原発」か「原発推進」かの論陣を堂々と張ればよい。マスコミが自立していると云うならば、いまその論陣を張らなくてはいけない。

 

昨今のマスコミは、とくに一番影響が大きいテレビは、電力不足の恐怖を煽り、放射能の汚染の情報をまことしやかに流してはいるが、その先に議論を進めようとしていません。ドイツでは「脱原発」にエネルギー政策を転換したと云うニュースが東京新聞に載っていましたが、取り上げているテレビを見ません。皆その議論から目を背けています。徐々に原発事故から意識が薄れてゆき、もうどうでもよくなるのを、東電も政府も、マスコミさえもじっと待っているような気さえします。誤解されないように付け加えますが、僕の「脱原発」の心は、いま事故現場で必死に対応している人達や、電力会社を否定するものではまったくありません。電力会社は原発以外のエネルギーでいっぱい商売してください。それでいいのです。

 

原発を今即座に止めろと云っているのではありません。原発を今即座に止めろと云えば、それを逆手に取られるのは必定です。当然恐らく、原発から自然エネルギーへの転換には、二十年、三十年のスパンを持って考えなくてはいけません。その方法はいわば「戦術」です。原発に頼らない社会を目指す、というのは、いわば国家百年の「戦略」なのです。その意識を国民全体が共有し、また国是とすることが一番肝要です。その目指す方向が決まれば、日本人の知恵と勤勉さから長い時間はかかるとしても、きっと成就するものであると信じています。このような、国の行く末を決める事業には、強い決意と、創造力、そしてそんな社会を夢見る豊かな想像力が必要なのです。

 

いま、「脱原発」の社会を目指すと云う心は、いままで原発に目をつむってきた私達の、放射能汚染で苦しんでいるすべての人達への、いま必死で原発事故に立ち向かっている人達への、せめてもの贖罪なのです。

 

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