「秦琴を聞く会」副会長と称していた湯浅啓之亮のこと

  • 2019年4月15日 16:18

また書こう、先の投稿の八木義之介が「秦琴を聞く会」の自称会長ならば、もう一人副会長と称していた湯浅啓之亮のこと。もちろん「秦琴を聞く会」ってのは名乗ってしまえば誰でも会員という適当な会ですよ。

湯浅啓之亮、生きていれば僕より10歳ほど年上だったので今年80歳になるだろう。前回投稿の八木さんと同じ頃に出会っている。東京大卒と聞いて驚いたけれどそのわりには小さな広告代理店でコピーライターをやっていた。会社は小さかったけれど彼は「朝日広告賞」を二度も取っていたのでその道では知られた人らしかった。ライブハウス「コタン」が四谷にあった頃僕のライブにはよく来てくれて、八木さんと一緒に酒を飲み「秦琴を聞く会」の副会長だと云ってコンサートも企画してくれた。一見右翼のおにいさんのような風貌だけれど彼が企画したコンサートで僕がうまく演奏できなかったりすると、アキと一緒に頭をまるめたいよー、なんて云っていた。

昭和58年 1983年、言葉の洪水のような「からだ中がホテル」という詩集を出版し、小さな木魚を叩きながらその詩集を彼が早口で朗読し僕が秦琴をバランー、なんてパフォー マンスも一緒にやった。そんな変ったことをやっている割には仕事や社会的にはいたってノーマルで、僕のことを、アキは非常識でなくて無常識だよ、なんてよく云っていた。しかし躁と鬱の病に抗しきれず「からだ中がホテル」という詩集一冊を残して平成5年 1993年に自ら命を絶った。

後日、彼の母親からまだ投函されていない僕宛のハガキを渡された。遺書のようなそのハガキには、「・・・これで漸く解放される。しょうがあんめいというところです。アハハハハ、お世話になりました。いつの日か冥土でまたお会いましょう・・、」。享年54才。

その湯浅さんを兄貴と呼んで慕っていた男がいた。元プロボクサー、バズソー山辺。元日本ライト級王者、三度世界タイトルに挑戦し敗れ1977年に引退した。湯浅さんが彼を連れて来たころは引退して随分経っていたのでボクシングにぜんぜん詳しくない僕はかれの華々しいキャリアをまったく知らなかったけれど、最初に会ったときはなんとなく素朴と強面が一緒になっているような感じの骨太の印象があった。実際に骨も太かったんだろうけど、、。1986年から 1987年当時、いまはもう無くなった渋谷の「ジャンジャン」でよくコンサートをしていて、そんな「ジャンジャン」でのコンサートを彼は一度見に来た、聴きに来た、かな。
http://akifukakusa.com/archives/concert_panf/janjan/

最後の曲が終わると、いよっ、東洋チャンピオン、なんて掛け声をかけてくれ、もとプロボクサーにチャンピオンなんて云われて気恥ずかしかったことを思い出 すよ。楽屋に顔を出して、この音は日本では判る人が少なくてむつかしいだろう、なんて云っていた。彼の尋常でない脳みそが何かを感じたんだろう。聞くところによると対戦相手の足を踏んで逃げられないようにして殴っていたこともあるすこしヒール的なボクサーだったので、それから少ししてよからぬ組織の用心棒 になっていると風の噂で聞いた。僕より3才年下なので生きていれば67になっているのだが、30年以上経っているので今は生きているのか死んでいるのか判らない。

それにしても僕は冷たい男かもしれない、湯浅さんの自死の知らせを聞いて涙が出なかった。それから少しして長応寺で泣いた。八木義之介が死んで、湯浅啓之亮が死んで、「山百合一輪川に流せば」という曲が出来た。

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