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   <title>秦琴</title>
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   <updated>2008-12-27T16:38:43Z</updated>
   <subtitle>秦琴について</subtitle>
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   <title>太宗の「五絃阮(ごげんげん）」の調弦の解明</title>
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   <published>2008-12-12T15:34:45Z</published>
   <updated>2008-12-27T16:38:43Z</updated>
   
   <summary>「五絃阮」の調弦の解明―五絃の内の何絃が加えられた絃なのか 太宗の「五絃阮(ごげ...</summary>
   <author>
      <name>深草アキ</name>
      
   </author>
         <category term="1070「五絃阮」の調弦の解明" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<h3>「五絃阮」の調弦の解明―五絃の内の何絃が加えられた絃なのか</h3>
<p class="img_R">
太宗の「五絃阮(ごげんげん）」の調弦の解明<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/history07.pdf" target="_blank">
<img class="none" src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/print.gif" alt="印刷用ＰＤＦファイル" title="印刷用ＰＤＦファイル" width="55" height="20" />
</a>
</p>
<p class="clear">
&nbsp;
</p>
<p>
ここで前記『樂書』の「阮咸琵琶」の話しに少し戻りたい。『宋史』巻百二十六に記されている様に、太宗に依って四絃の「阮咸」に更に一絃付け加えられた「五絃阮」則ち『樂書』謂う所の「阮咸琵琶」なる楽器は、後世に伝わった記述が見当たらない。宋や明の絵画に描かれている「阮」が四弦のものであるのは、伝統的な楽器の形体を描いていると言うことかも知れないから、まあ仕方がないとしても(注)、宋、元、明、清の書物に於いても『樂書』、『山堂考索』、『宋史』、他に『続資治通鑑長編』巻三十八、巻八十、巻百六十八に記された太宗の話し以外にはこの「五弦阮」の記述を、あくまで管見ではあるが、見つけることが出来ない。<br />
<br />
前記「北宋時代」に於いて触れた『續湘山野録』にも記されている様に、この「五絃阮」は宮中奥深くに秘蔵されていた様なので民間に伝わらなかったのは当然かもしれないが、南宋に於いては最早宮中内でも弾かれることは無かった様に思われる。
</p>
<p>
（注）：【南宋・趙伯駒「停琴摘阮図」、南宋・李嵩「聴阮図」、故宮博物院所蔵・宋代の「竹林撥阮図」、明・仇英「停琴聴阮図」、明代「皇都積勝図」又、宋、明代の「西園雅集図」に描かれている「阮」等参照】、
</p>
<p>
<br />
又、太宗は「阮咸」の他にも琴の弦数も増やしている。七絃の琴に二弦増やした「九絃琴」なるものも作ってはいるが、現在の琴の状況を見れば、これも又後世に伝わっていない。<br />
しかし『樂書』巻百四十五の「阮咸琵琶」の条に記された柱の律名に関する記述は当時の宮廷の音楽を担っていた太常楽工の俗譜から採っているので、この「五絃阮」は、陳暘在世の十二世紀初頭当時、もしくはその少し前あたりまでは実際に使われていたのであろう。<br />
今この『楽書』の記述をもとにして、当時の「五絃阮」の調弦を解明し、また旧制と記されている「四絃阮」の調弦にも触れてみたい。
</p>
<p>
【ここからは専門用語を逐一説明することは出来なく解りづらいところもあろうかと思います。専門家、もしくはものすごく興味のある人にとってはなかなか面白いところもあろうかと思いますが、判らなくなった場合は結論だけでも読んで下さい。】それでは本題に。
</p>
<p>
<br />
陳暘『樂書』巻百四十五「阮咸琵琶」の条に次のように記されている。【国立国会図書館所蔵の宋刊本の『樂書』は丁度このページの一部が白く欠落しているので、静嘉堂文庫膠片(マイクロフィルム)の『樂書』から補った。】
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%; font-family: MS Gothic">太宗旧制四絃上加一絃散呂五音［呂絃之調有数法大絃為宮是正声或為下徴或為下羽］阮類琴有濁中清三倍聲上隔四柱濁声也応琴下暉中隔四柱中声也類琴中暉（下暉）下隔四柱清声類琴之上暉今太常楽工俗譜按中隔第一絃［第一柱下按黄鐘第二柱下按大呂］</span><span style="font-size: 120%; font-family: MS Gothic">第</span><span style="font-size: 120%; font-family: MS Gothic">二絃［第一柱上按太蔟第一柱下按夾鐘第二柱下按姑洗第三柱下按中呂］第三絃［第一柱上按蕤賓第一柱下按林鐘第二柱下按夷則第三柱下按南呂］第四絃［第一柱下按無射］第五絃［第一柱上（下となっているが誤り）按応鐘第二柱是黄鐘清第三柱是大呂清第四柱是太蔟清有夾鐘清在下隔也］凡此本応五音非有濁中清之別也今誠去四清声以合五音則舜琴亦不是過也</span>
</p>
<br />
<p>
【聖朝太宗は旧制の四絃に一絃加えられた。散声は呂の五音となる［呂絃の調は数法ある。大絃を宮とするのを正声と言う。或は下徴になり或は下羽となる］阮は琴に類して濁中清の三倍の聲がある。上隔の四柱は濁声であり琴の下暉に応じている。中隔の四柱は中声で琴の中暉に類している。下隔の四柱は清声で琴の上暉に類している。今、太常楽工の俗譜では、中隔の第一絃［第一番目の柱（フレット）の下を押さえれば&ldquo;黄鐘&rdquo;となる。第二番目の柱の下を押さえれば&ldquo;大呂&rdquo;となる。］　第二絃［第一番目の柱の上を押さえれば&ldquo;太蔟&rdquo;となり、第一番目の柱の下を押さえれば&ldquo;夾鐘&rdquo;となる。第二番目の柱の下を押さえれば&ldquo;姑洗&rdquo;となる。第三番目の柱の下を押さえれば&ldquo;中呂&rdquo;となる。］　第三弦［第一番目の柱の上を押さえれば&ldquo;蕤賓&rdquo;となり下を押さえれば&ldquo;林鐘&rdquo;となる。第二番目の柱の下を押さえれば&ldquo;夷則&rdquo;となる。第三番目の柱の下を押さえれば&ldquo;南呂&rdquo;となる。］　第四絃［第一番目の柱の下を押さえれば&ldquo;無射&rdquo;となる。］　第五絃［第一番目の柱の上を押さえれば&ldquo;応鐘&rdquo;となる(注)。　第二番目の柱は&ldquo;黄鐘清&rdquo;になる。第三番目の柱は&ldquo;大呂清&rdquo;となり、第四番目の柱は&ldquo;太蔟清&rdquo;となる。&ldquo;夾鐘清&rdquo;は下隔にある。］　凡そ此れは本来五音に応じて、濁、中、清の別はない。今誠に四清声を取り去り五音に合わす。則ち舜帝の琴も又これを過ぎてはいない。】
</p>
<p>
（注）：ここの記述は上記で書いた通り、（下）となっているが（上）の誤りである。もし（下）が正しいのならば、弟四番目の&ldquo;太蔟清&rdquo;は下隔になってしまう。
</p>
<p>
<br />
このように記されている。十二個ある柱を四つずつに分け、それを上隔、中隔、下隔としている。琴の下暉、中暉、上暉に類すると記されているが当然音は異なるものであろう。その中隔の四つの柱に第一絃から第五絃にかけて黄鐘から始まり太蔟清までの十五の律呂名が配置されている。勿論第一絃から弟五絃にかけて段々音が高くなってゆく。<br />
又、文中の俗譜の記述に【上按・・、下按・・・】と記されているのは、&ldquo;上&rdquo;は承絃側&ldquo;下&rdquo;は覆手側、と云うことを意味し、&ldquo;按&rdquo;とは指で押さえることなので、例えば【上按・・・】というのは、その柱の承絃側を指で押さえて、又【下按・・・】というのはその柱の覆手側を指で押さえて、その然るべき音を出すと云うことなのである。
</p>
<p>
この様に捉えるとこの中隔の四柱は、後で図で示す様に明らかに一律ずつの音程間隔で付けられていることが判るのである。<br />
しかし勿論当時は&ldquo;三分損益&rdquo;と言う方法で音程を取っているので、今日の様な十二平均律の半音ではない。<br />
<br />
漢式型の琵琶は十二柱で、傅玄『琵琶賦・序』に依れば律呂に配されていると記されているので、基本的には一律ずつであったのかもしれない。唐の「阮咸」は十三柱に改められているが、この唐代の阮咸の遺物である正倉院の「阮咸」は、&ldquo;桑木阮咸&rdquo;も&ldquo;紫檀螺鈿阮咸&rdquo;も共に十四柱である。林謙三氏等の調査に依れば、十柱までは略正確で残りの四柱は付け替えられているらしい。【林謙三氏に依れば十四柱目は第四絃の為の孤柱かもしれないと言うことだが。】<br />
この「阮咸」は九柱目がオクターブなのだが、奏法的に考えればオクターブ上から柱制が変わるとは思えないのであるが。私は演奏家なのでそのように考えてしまう。勿論オクターブ上も柱制が同じほうが合理的であるし弾きやすいであろう。ただあまりに高い音になると柱の間隔が狭くなるので間引くこともあるらしい。<br />
<br />
しかし正倉院の「阮咸」が、何故『通典』等に記されている「阮咸」の十三柱の制度とは異なり十四柱になっているのかは、今となっては最早はっきりとは判らないが、調弦解明に直接影響が無いので、オクターブ上からの柱制同様今は未解決のままにして於くしか無い。ただ明らかになっている十個の柱の柱制が当時の中国の「阮咸」と全く異なるとは思えないし、舶載品ならば当然正倉院の「阮咸」の柱制が唐の「阮咸」の柱制なのである。<br />
<br />
この様に考え中国唐代の十三柱の「阮咸」の柱制は正倉院の「阮咸」を基にして、【図一】のようなる。<br />
<br />
</p>
<h3>【図一】</h3>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/gogengen-zu1.jpg" alt="" width="500" height="238" />
</p>
<p>
太宗の「五絃阮」は『樂書』に依れば十二柱となっているので、隋・唐代の少し小振りな、十二柱である&ldquo;秦漢子&rdquo;の制度に戻ってしまったのかもしれない。ただ、実際のところ&ldquo;秦漢子&rdquo;の柱制が一律ずつに付けられているということは確実には判っていないが。又、頸（棹）が長いと記されていることから、この「五絃阮」は唐代の「阮咸」の柱制を踏襲しているとも考えられるのだが、いまここでは三つの異なった柱制を取り上げてみたい。<br />
<br />
只、もしこの「五絃阮」が唐の「阮咸」とも、&ldquo;秦漢子&rdquo;とも、又その他全く異なった柱制であったとしても、その散声の調弦の&ldquo;型&rdquo;自体は中隔の四柱のから導き出すことが出来るのである。又、後記で判る様に一絃増やされたことに依って、より高い音や、より低い音が出せるようになった、と言うことではない。<br />
<br />
先ず、最初は「五絃阮」の柱制は唐の阮咸の柱制を踏襲していると考へ、【図一】の唐代の「阮咸」の柱制に、この『樂書』の「阮咸琵琶」の条に記されている中隔の柱の律名を、記述どうりに配置すると正に【図二】のようになるのである。勿論唐の開元あたりから宋の太宗の頃迄の二百数十年間この柱制が伝承されてきたという前提での話しであるが。<br />
<br />
</p>
<h3>【図二】</h3>
<br />
&nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/zu2.jpg" alt="" width="400" height="564" />
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
第一絃の第六柱の黄鐘から、第五絃の第六柱の黄鐘清までを一オクターブとし、その内に十二個の律名が各絃には位置されている。赤色の律名が四つの清声を含め『楽書』の文中に記された律名の位置だが、これを基にして他の柱の律名と散声を割り出し記してみた。<br />
結果的にこの様になることを考えれば、前記の&ldquo;上、下&rdquo;の記述を、承絃側と覆手側にしたことは、合理的な解釈であったことが判るのである。<br />
<br />
そして散声は次のようになる。<br />
<br />
第一絃・・・［姑洗］<br />
第二絃・・・［林鐘］<br />
第三絃・・・［応鐘］<br />
第四絃・・・［太蔟］<br />
第五絃・・・［姑洗(第一絃のオクターブ高い音)]<br />
<br />
又、この柱制を基にしてオクターブから上を一律間隔にした場合は【図三】のようになる。<br />
何故このように考えるかと言えば、【図二】の場合であると&ldquo;夾鐘清&rdquo;の音が出難くなるからである。尤も【今誠去四清声以合五音・・（いま正に四清声を除いて五音に合う・・）】とも記されているので四つの&ldquo;清声音&rdquo;則ちオクターブ高い音はあまり使われなかったのかもしれない。<br />
<br />
</p>
<h3>【図三】</h3>
<p>
オクターブから下は【図二】と同じなので、オクターブ上からの図を記す。
</p>
<br />
&nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/gogengen-zu3-MS.jpg" alt="" width="300" height="200" />
<br />
<p>
次に、秦漢子がそうであったかも知れない、十二柱がすべて一律間隔で付けられている場合は【図四】のようになる。
</p>
<br />
<br />
<h3>【図四】</h3>
<br />
&nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/zu4.jpg" alt="" width="400" height="518" />
<p>
この様になるのだが、まず【図二】の場合を考察してみたい。
</p>
<br />
<p>
唐の「阮咸」の柱制を踏襲しているこの場合は、その散声は図に記した様に、第一絃・姑洗、第二絃・林鐘、第三絃・応鐘、第四絃・太蔟、第五絃・姑洗(オクターブ高い音）となる。これは林鐘を[宮]とすれば姑洗は[羽]応鐘は[角]太蔟は[徴]となり、[商]声は無いが、林鐘均の五声にあてはまることが判る。林鐘は呂声なので、文中に記されている【散呂五音】はこのことを意味していると思われる。また開放絃が呂声の五つの音から成り立っているともとれるが、【図四】の柱が一律ずつの間隔で付けられている場合に於いても、又どのような柱制に於いても、この中隔の律呂の記述からすれば散声が呂声の五音には成り得ない。<br />
<br />
そして何故「五絃阮」はこのような調弦になったかを推測するに、次のように考える。<br />
すなわち第四絃の&ldquo;太蔟&rdquo;の絃を取り除いて、散声を、&ldquo;姑洗&rdquo;、&ldquo;林鐘&rdquo;、&ldquo;応鐘&rdquo;、&ldquo;姑洗(オクターブ上)&rdquo;とする四絃にしてみる。この調弦は則ち我が国の『和名類聚集』に『阮咸譜』からとして、琵琶の&ldquo;風香調&rdquo;と同じと記されている、&ldquo;清風調&rdquo;と呼ばれる「阮咸」の調弦と型を同じくする&ldquo;羽調式型&rdquo;の調弦となるのである。<br />
同様に【図四】の柱制に於いても、勿論【図三】の柱制に於いても、又どの様な柱制にしてもこの様にすれば調弦の&ldquo;型&rdquo;自体は&ldquo;羽調式型&rdquo;の調弦となるのである。<br />
<br />
要するに、この様な&ldquo;羽調式型&rdquo;の調弦を持った旧制の「四絃阮」に、更に一絃加え、第一絃と第五絃とをオクターブにする為に、第四絃を&ldquo;太蔟&rdquo;の&ldquo;徴&rdquo;とし、散声を林鐘均としての整合性を持たせるようにした調弦なのである。<br />
<br />
則ち「四絃阮」の一番細い絃に更にもう一絃加え、より高音が出るようにしたり、又より太い絃を加えたり、或は「四絃阮」とは異なる太さの絃を用い全く違う調弦にする、と言う様なことではなく、従来から使われていた「四絃阮」の&ldquo;羽調式&rdquo;の調弦をそのまま用い、「四絃阮」で言えば第三絃と第四絃のその間にもう一絃加えると言う発想をしたのではないかと思われるのである。<br />
則ち加えられた絃は第四絃の&ldquo;太簇の徴&rdquo;の絃なのである。言うならば&ldquo;林鐘均羽調式&rdquo;のオープンチューニングの様なものである。（【図四】の場合では&ldquo;南呂均&rdquo;となるが。）<br />
<br />
この様に考えれば『樂書』に旧制と記された北宋当時の中国の「四絃阮」の調弦は、やはり我が国の平安時代当時&ldquo;清風調&rdquo;と言われた「阮咸」の調弦と型を同じくする&ldquo;羽調式&rdquo;の調弦であり、唐の開元あたりから二百数十年間脈々と伝承されてきたことが推察出来るのである。
</p>
<p>
日本の平安時代の「阮咸」の調弦は勿論中国から伝わったものであろうが、『和名類聚集』に記された『阮咸譜』なるものが、奈良時代に「阮咸」という楽器が伝わった時期と同時に伝わったかものであるかどうかは判らない。しかいその調弦法は確かに伝わっていたのであろう。<br />
<br />
又、この『阮咸譜』は宋の『崇文総目』に二十巻と記され、南宋・鄭樵の『通志』、応王麟の『玉海』、馬端臨の『文献通考』にも取り上げられているが、現在には伝わっていない。
</p>
<p>
又【呂絃之調有数法大絃為宮是正声或為下徴或為下羽】のくだりは、大絃を一番太い絃と見れば【図五】の様になる。<br />
<br />
</p>
<h3>【図五】</h3>
<p>
<br />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/gogengen-zu5-1-s.jpg" alt="" width="230" height="307" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/gogengen-zu5-2-s.jpg" alt="" width="230" height="307" />
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%">姑洗均となる　　　　　　　　南呂均となる</span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/gogengen-zu5-3-s.jpg" alt="" width="230" height="307" />
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%">林鐘均となる</span>
</p>
<p>
<br />
この様になる。だがしかしこの文章は陳暘が良く理解して記したものかどうか判らない。少なくともこの文章通りに考えれば上記のようになるのであるが。<br />
<br />
宋の至道二年（996年）、太常音律官の田琮(でんそう)が、「九絃琴」とこの「五絃阮」の調法を整え、十二律を配し旋宮の法を考案し、図を付けて皇帝太宗に献上している。<br />
<br />
又現代の音楽と比較すると、色々な研究もありますが、楊蔭瀏氏の『中国古代音楽史稿(上)』に依れば、太宗の当時は和峴の律なので&ldquo;黄鐘&rdquo;が&ldquo;低めのf &rdquo;、陳暘在世の時代は魏漢津の律で&ldquo;高めのd &rdquo;、これを図【二】の「五絃阮」の調弦に当てはめると次の様になる。<br />
<br />
太宗当時　　　&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　 陳暘在世の時代<br />
第一絃(姑洗）　A　　　　　第一絃　F#<br />
第二絃(林鐘）　c　　　　　第二絃　A<br />
第三絃(応鐘）　e　　　　　第三絃　c#<br />
第四絃(太蔟）　g　　　　　第四絃　e<br />
第五絃(姑洗）　a　　　　　第五絃　f#<br />
<br />
<br />
図【四】の場合では<br />
<br />
太宗当時　　　&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　 陳暘在世の時代<br />
第一絃(蕤賓）　B　　　　　第一絃　G#<br />
第二絃(南呂）　d　　　　　第二絃　B<br />
第三絃(大呂）　f#　　　　 第三絃　d#<br />
第四絃(姑洗）　a　　　　　第四絃　f#<br />
第五絃(蕤賓）　b　　　　　第五絃　g#<br />
<br />
<br />
<br />
以上の記述は私の一私見に過ぎないし、この『楽書』の記述は割と解明しやすいものであったので已に周知の事実かもしれない。勿論正確に解明出来るものではなく、特に「五絃阮」の柱制は十二柱となっており、唐の十三柱の「阮咸」とも異なっているので正確には判りようが無い。しかしどの様な柱制であろうと、何度も言うように調弦の型自体は、中隔の律呂名より導き出すことが出来るので、やはり我が国の『和名類聚集』にも記されている&ldquo;清風調&rdquo;と言う調弦と&ldquo;型&rdquo; を同じくする、&ldquo;羽調式型&rdquo;の調弦が基本であることは間違いないように思われる。<br />
<br />
まあ蛇足で云うならば、この清風調の調弦は、私の秦琴の「風調」と言う調弦と形が似ている。偶然にも同じように&ldquo;風&rdquo;という字が付いている。<br />
<br />
</p>
<h3>追補</h3>
<p>
南宋・馬端臨の『文献通考』巻百三十七・楽考十・絲之属の「阮咸琵琶」の条に『楽書』からの引用と思われる文章がそのまま記されている。しかし誤字が多い。特に俗譜の&ldquo;上&rdquo;&ldquo;下&rdquo;の記述に誤りが多いので、そのまま信じてしまうと全く訳の判らないものになってしまう
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p class="nextpre">
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</a>
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>絹絃の話</title>
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   <published>2008-07-11T08:28:45Z</published>
   <updated>2008-08-07T01:18:39Z</updated>
   
   <summary>はじめに 楽器にとって絃というものは非常に重要なもので、各楽器の音色の違いに大き...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="1300絹絃の話" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<h3>はじめに</h3>
<p class="img_R">
<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/aboutsilk.pdf" target="_blank">
<img class="none" src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/print.gif" alt="印刷用ＰＤＦファイル" title="印刷用ＰＤＦファイル" width="55" height="20" />
</a>
</p>
<p class="clear">
楽器にとって絃というものは非常に重要なもので、各楽器の音色の違いに大きく関わってくる。音楽そのもの以前に音色自体を楽しめる私たち日本人にとって、取りも直さず日本の音楽家にとっては、絃に就いての関心を見過ごすわけにはいかない。私は秦琴の音楽を創り出すにあたり、絹絃にこだわった。絹絃独特の口では言い表せないザラリとした音色は今でも飽きることはない。毎日、毎日食べても飽きないみそ汁の様でもあるけれど、時には私の音響装置を通して、包み込まれる様な音の中で、何時間ものめり込んで弾くときもある。しかしその音色自体に飽きることはない。そんな絹絃のことを少し調べてみたので数回に分けて書いてみたいと思う。
</p>
<p>
<a href="/shinkin/silkstrings/sono1/">その一</a>【古代中国の絹弦の事情について】
</p>
<p>
<a href="/shinkin/silkstrings/sono2/">その二</a>【楽器の絃にまつわる話し、一回目】
</p>
<p align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/blog/kuwa3ok.jpg" alt="養蚕の為の桑の葉を摘む女性達" width="423" height="220" />
</p>
<p align="center">
養蚕の為の桑の葉を摘む女性達&nbsp;&nbsp;&nbsp;<span style="font-size: 80%">甘粛人民美術出版社『嘉峪関酒泉魏晋十六墓壁画』</span>
</p>
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>絹弦の話</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://akifukakusa.com/shinkin/2008/07/post_15.html" />
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   <published>2008-07-04T07:08:39Z</published>
   <updated>2008-11-14T02:21:08Z</updated>
   
   <summary>その二 前回では、古代中国の絹絃の事情についていくらか判ることを書いて見たが、こ...</summary>
   <author>
      <name>深草アキ</name>
      
   </author>
         <category term="1320その２" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<h3>その二</h3>
<p>
前回では、古代中国の絹絃の事情についていくらか判ることを書いて見たが、この回ではその他に楽器の&ldquo;絃&rdquo;について記されている中国の古い書物や文章等をいくつか挙げ、それにまつわる話をしてみたい。絹絃の楽器を演奏している音楽家には多少興味があるのかもしれないが・・・・
</p>
<p>
＊梁（502&mdash;557）蕭統の『文選（もんぜん）』弟八巻に収められている、前漢・枚乗(ばいじょう)（？&mdash;前140）の『七發』に次の一文がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">・・・野繭之絲以為絃（野繭野蠶之繭也）・・・</span></span>
</p>
<p>
野蚕の繭の糸を絃にする、と言っている。この野蚕の糸は前回の&ldquo;柘糸&rdquo;とは厳密に言えば違う物だろうか。それとも言い方を変えているだけであろうか。現在言う所の野蚕は野生の蚕のことであろうが、私の知人によると、この野蚕を集めて繭にしようとした所、升目の箱の中で繭にならず外に出てしまう程元気が良いらしい。この蚕とよく似た話しが元末・陶宗儀の『説郛』に収められている『賈氏説林』の中に記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">蠶最巧作繭徃徃遇物成形有寡女独宿倚枕不寐私傍壁孔中視隣家蠶離箔明日繭都類之雖眉目不甚悉而望去隠然似愁女蔡邕見之厚價市帰繅絲製琴絃弾之有憂愁哀動之聲問女琰琰日此寡女絲也聞者莫不堕涙</span></span>
</p>
<p>
大意
</p>
<p>
【蚕は最も巧みに繭を作るが、往々にして偶然に形に成る物もある。寡婦の女性が宿に泊まっていたが、眠れずにいたのでこっそりと、傍らの壁の穴から隣の家を覗くと、蚕が箔から出てしまっているのが見えた。日が明けてみると凡ての蚕が箔の外で繭になっていた。見た目はあまり良くないが、望みが去り内に力を秘めている愁女のようであった。蔡邕はこれが高値で売買されているのを見て（？）、持ち帰り糸を繰って琴の絃を作らせた。これを弾いたところ憂愁哀動の音がしたので娘の琰に問うた。すると琰は&ldquo;此れは寡女絲ですね&rdquo;と言った。聴く者皆涙を流さない者はいなかった。】
</p>
<p>
蔡邕(132&mdash;192)は後漢の人で音律に通じて琴を善くした。琰はその娘でこの人も又琴の名手で、幼い時に父の弾く琴の、何絃が切れたのかを言い当てたそうだ。そんな彼女であるから、この絲の音の深みが判り寡女に喩えたのであろう。第一回目で書いた通り琴の絃には普通柘葉で飼われた蚕の糸である檿絲（えんし）なる糸が使われているのだが、この野蚕と思われる糸は、皆が涙する程に音に深みがあったのであろうか。この様な記述を見ると、少し大袈裟なところもあるけれど、二千年も前から音楽は人の心に語りかけてきたのですね。ただ実際、蔡琰は寡婦暮らしが長かったのでこんな話しが作られたのかもしれないが。
</p>
<p>
枚乗(ばいじょう)が生きた前漢の頃も、蔡邕(さいよう)の後漢に於いても養蚕は已に高度なものになっていたので、この&ldquo;野蚕&rdquo;は今と同じく高価なものであった、と云うことなのであろう。枚乗(ばいじょう)の『七發』は彼が梁の孝王に仕えていた時、太子に啓告する為に作られたものなので（中国学芸大事典）、琴の絃としては普通の檿絲（えんし）ではなく、特別な野蚕の糸を用いるとしたのであろうか。<br />
しかし二千年も変わらず元気な蚕なのですねえ！
</p>
<p>
＊唐・欧陽詢(557&mdash;641)の『藝文類聚』に収められている、晋・孫諺（該・がい）の&ldquo;琵琶賦&rdquo;には次の様にも記されている。【『北堂書鈔』『初学記』『白氏六帖事類集』はすべて&ldquo;孫該（そんがい）&rdquo;】
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">・・・推嘉桐之竒生于丹澤之北・・・弦則岱谷檿絲・・・</span></span>
</p>
<p>
【思うに良い桐は丹澤之北に生えているもので・・・絃は則ち岱谷の檿絲・・・】
</p>
<p>
この&ldquo;琵琶賦&rdquo;は勿論円体胴、直頸型の漢式琵琶のことを記したものだが、良い桐は丹澤の北に生えているもので、絃は岱谷の檿糸、と言っている。この檿糸は琴の絃のみならず、琵琶の絃にも用いられていたことが判る。又桐のことが記されているので、この頃(1700年程前)から桐が用いられていたことが知れる。当然胴体の腹板の部分であろう。<br />
岱谷は泰山のことであろうが、しかし当時の丹澤とは何処のことだろう。
</p>
<p>
孫該と同じ晋代の善弾琵琶者として知られる阮咸もやはり絃にはこの檿糸を使って琵琶を楽しんでいたのでしょう。
</p>
<p>
＊唐の盧綸（ろりん）（779〜804）の詩中に
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">玉鼻琵琶五色絲・・・・</span>（『海録碎事』巻16琵琶門より）</span>
</p>
<p>
玉鼻の琵琶の絃が五色の糸で縒られたものなのか、絃が五絃の琵琶で五色なのか判らないが後者だとしたら&ldquo;五絃琵琶&rdquo;と言うことになる。(周知のように&ldquo;五弦琵琶&rdquo;の現物は正倉院に一面残るのみ。)
</p>
<p>
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/mayu.jpg" alt="" width="252" height="189" />
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%">いろいろな色の繭：これらの繭の色はまったく自然の色なので、玉鼻の琵琶の&ldquo;五色絲&rdquo;はあながち根拠が無いことではないのである 。（提供ーシルクラブ）</span></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
＊唐・段成式(？&mdash;863)の『酉陽雜俎(ゆうようざっそ)』巻六&ldquo;樂&rdquo;の条には
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">古琵琶用鵾鶏股（筋）開元中段師能弾琵琶用皮絃賀懐智破撥弾之不能成聲</span></span>
</p>
<p>
【いにしえの琵琶は鵾鶏(とおまる)の筋の絃を使っていた。開元中(713&mdash;741)の人、段師は琵琶の名人で皮の弦を使っていた。賀懐智がこれを弾いたが撥が壊れて音楽に成らなかった。】
</p>
<p>
段師とは庄嚴寺の和尚の段善本(だんぜんぽん)のことで琵琶の名手であった。この時代になると琵琶と言えば&ldquo;四絃曲頸琵琶&rdquo;を指すのだが、この段善本は貞元中(785&mdash;805)に、これ又琵琶の達人として知られた康崑崙(こうこんろん)にその奏でる音に邪声があるとして十年間楽器に近づくことを許さなかった人物とされている。この記述を見ると段善本は皮弦を使っていた様だ。さしもの賀懐智もこの皮弦には撥が壊れて音も出なかった、と言う話しであるが、皮絃の記述が見られるのは私の知る限りではこの『酉陽雜俎(ゆうようざっそ)』が初めてではないかと思う。この後、皮絃の話しは色々な書物に現れるが　後々取り上げてみる。
</p>
<p>
そして又、いにしえの琵琶は鵾鶏(とおまると言う鶏の一種)の筋の絃を使っていた、と記されているが、実はこの賀懐智も相当な音楽家で、鵾鶏の筋の絃を使って琵琶を弾いていた話しが、段成式の息子である段安節の『樂府雑録』に記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">開元中有賀懐智其楽器以石為槽鵾鶏筋作絃鉄撥弾之・・・</span></span>
</p>
<p>
【開元中(713&mdash;741) に在世した賀懐智なる者の楽器は胴体が石で出来ており絃は鵾鶏の筋で作られ、これを鉄の撥で弾いていた・・・・】
</p>
<p>
このようなものだ！　しかしこれが本当だとしたらすごく重いでしょうね。そして鉄の撥で弾いていたのだから、絃は鵾鶏の筋を何本も撚り合わせた丈夫な物であろう。ただどうしてこの様な琵琶を作ったのか、今の感覚からすると良く判らないところもあるが、もしかしたらこの賀懐智はかなりの大男でこの石槽の琵琶を軽々と弾いていたのかも知れない。
</p>
<p>
宋・楽史(910&ndash;1007)の『楊太真外伝』に、賀懐智がこの石槽の琵琶を玄宗皇帝と楊貴妃の前で演奏したことになっているが、どんな音がしたのだろう。
</p>
<p>
＊この賀懐智と段善本と康崑崙に関して唐・元稹(げんしん・779&mdash;831）の『元氏長慶集』巻二十六&ldquo;琵琶歌&rdquo;には次の様なことも記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">琵琶宮調八十一調旋宮三調弾不出玄宗偏許賀懐智段師此藝還相匹自後流傳拍撥衰崑崙善才徒爾為[]聲少得似雷吼纏絃不敢弾羊皮・・・・</span>[]は、さんずいに項</span>
</p>
<p>
大意
</p>
<p>
【琵琶の調は三調を基に、旋宮をして八十一調を作る。玄宗は賀懐智を偏って賞賛した。段師の技は尚又賀懐智に匹敵するものであったが、世に広まった後衰えてしまった。崑崙は才能の有る人物である。音がこもり、すこし雷吼のようになる為、敢えて絃を羊皮にしなかった・・・。（纆絃は一番太い絃のことかもしれない。又、琴の絃の様に芯の絃に細い糸を巻付けたものを纆絃と云うが、琵琶にこのような絃を用いていたのかもしれない。）】
</p>
<p>
前記『酉陽雜俎』よると段師は皮絃を使っていたのだが、その教えを請うた崑崙は敢えて皮絃を使わなかったようである。この当時は様々な絃を用い人それぞれの音色を追求していたようだが、現在では絹弦にしろ、スチール絃にしろ、なにか画一的になっている様な気がする。音の音色にそれほど重点を置かなくなってしまったのだろうか。又、羊皮と記されているので、この皮絃は羊の皮で作られていたようである。
</p>
<p>
玄宗は賀懐智を重用していたようだが、賀懐智が玄宗皇帝に上手く取り入っていたことは『酉陽雜俎』にこんな話しもある。
</p>
<p>
【ある時、賀懐智が玄宗皇帝と楊貴妃の前で演奏していると楊貴妃の襟の布が風に吹かれて彼の頭巾の上に落ちた。賀懐智が家に帰るとあまりに良い香気が移っていたのでその頭巾を袋に入れて仕舞って於いたそうだ。その香気の滲み込んだ頭巾を楊貴妃が殺されて嘆き悲しんでいた玄宗皇帝に献上した】と言う様なことが記されている。この当時の取り入り方も何とまあ優雅なものだ。だけどこんなことしたら余計に悲しくなるでしょうね。
</p>
<p>
＊唐・鄭処誨の『明皇雑録』の一節から
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">中官白秀貞自蜀使回得琵琶・・・・・・</span></span>
</p>
<p>
【宦官の白秀貞が蜀の使いから帰り、琵琶を持ち帰ってきた・・・】とあり、前記、宋・楽史（910&minus;1007）の『楊太真外伝』にはこの琵琶の絃についての記述がある。（『明皇雑録』には何故か絃についての記述は無く、年代的には遅く書かれている『楊太真外伝』に絃の話しが追加されているのは少し疑問なのだが。）
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">中官白秀貞自蜀使回得琵琶・・・・・・絃乃未可彌羅国所貢緑冰蚕絲也・・・</span></span>
</p>
<p>
【宦官の白秀貞が蜀の使いから帰り、琵琶を持ち帰ってきた・・・絃は乃ち未可彌羅国が献上してきた緑の冰蚕絲である・・・・】
</p>
<p>
宦官の白秀貞が蜀から使者として帰り、その時得た琵琶を楊貴妃に献上したのだが、その張られた絃は未可彌羅国（今の西パキスタン辺りに在った国らしい）からの貢ぎ物の冰蚕絲で出来ている、と記されている。
</p>
<p>
ちなみにこの&ldquo;冰絃&rdquo;は『元史』巻六十八の琴の一節にもその絃として記され、琴の絃の代名詞にもなっている。要するに冰蚕の繭から繰られた糸で作られた絃と言うことだが、この冰蚕と言うのはものすごい蚕らしく、五胡十六国時代・前秦の王嘉『拾遺記』に依れば、【山中の霜雪の中に住み長さが七寸位（22〜23cm位）、黒色で角と鱗が在り一尺程の繭をその雪中に作る。色が五色に輝きその糸で布を作れば水に入れても濡れず火に投じても燃えない】、と言う代物だそうである。
</p>
<p>
その昔に本当にこんな蚕がいたのかどうかはちょっと信じられないが、前記『楽府雑録』の&ldquo;康老子&rdquo;と言う曲の逸話にこんな話しも記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">康老子即長安富家子落魄不事生計常與国楽游處一旦家産蕩盡偶一老嫗持舊錦褥貨鬻乃以半千獲之尋有波斯見大驚謂康日何處得此是氷(冰)蠶絲所織若暑月陳於座可致一室清涼即酬千萬康得之還與国楽追歓不經年復盡尋卒後楽人嗟惜之遂製此曲亦名得至寶<br />
明皇初納太真妃喜謂後宮日予得楊家女如得至寶也遂製曲名得寶子</span></span>
</p>
<p>
大意
</p>
<p>
【康老子は長安の富豪の家の息子であった。豪快な性格で家計を顧みず音楽などに遊び呆けていたので一旦は財産を使い果してしまった。たまたま老婆に出会い古い錦の敷物を売っていたので半千で之を得た。ペルシャ人に尋ねてみると大変驚き康に向かってこう言った。此れを何処で手に入れたのですか。是は氷(冰)蠶絲で織ってあり、暑い月にはこれを敷けば一部屋が涼しくなるというもので、千萬の価値があるものです。しかし康はこれを得ても尚遊び呆けていたので、年経たずして又財産を使い果してしまった。彼が死ぬと間もなく楽人がこの愚かさを嘆きこの曲を作った。又の名を&ldquo;得至寶&rdquo;と言う。
</p>
<p>
玄宗皇帝が初めて楊貴妃を娶ったとき、喜んで楊貴妃にこう言った。&ldquo;予は楊家の女を得た。まるで最高の宝物を手に入れた様だ（得至寶）。&rdquo; そしてこのことから&ldquo;得寶子&rdquo;と云う曲が作られた。】
</p>
<p>
このような記述を見ると唐の当時でも氷(冰)蠶絲の織物は相当高価な物であったようである。今でも絹のペルシャ絨毯は高価な物だけれど。しかし冰蚕なるものが本当にいたとは信じられないが、『楊太真外伝』には&ldquo;緑冰蚕絲&rdquo;とあるので、綺麗な淡い緑色の糸になる&ldquo;天蚕&rdquo;なのかもしれない。
</p>
<p>
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/tensan.jpg" alt="" width="248" height="186" />
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%">淡緑色している天蚕の原糸&nbsp; (提供ーシルクラブ）</span></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
【次回に続く】
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【秦琴の歴史】北宋時代</title>
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   <published>2008-06-30T01:54:49Z</published>
   <updated>2008-12-27T09:43:39Z</updated>
   
   <summary>北宋時代 北宋時代 第二回は宋代からの「阮（阮咸）」の経緯について話をしたいと思...</summary>
   <author>
      <name>深草アキ</name>
      
   </author>
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      <![CDATA[<h3>北宋時代</h3>

<p class="img_R">
北宋時代<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/history06.pdf" target="_blank">
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</a>
</p>
<p class="clear">


<p>
第二回は宋代からの「阮（阮咸）」の経緯について話をしたいと思う。
</p>
<p>
&mdash;　北宋代に於いて　―
</p>
<p>
前記した様に漢代に現れ「批把（琵琶）」と記され、円体胴に直頸の棹を持ち四弦とされている楽器は、(漢代に確かにこの様な形体であるかは疑問だが）六朝時代おおいに流行し（三条の弦を持つものも現れているが）隋・唐の時代になるとそれらの楽器は総称して&ldquo;秦琵琶&rdquo;と呼ばれ、隋・唐当時のものは「秦漢子」と号されていた。その後形を一回り大きくし「阮咸」と名付けられ、後に「月琴」とも称される様になった。又唐代には「三絃」と呼ばれた楽器も現れていたが、前記したように柳宗元謂う所のこの「三絃」は宋代に伝わった形跡が見当たらず、「三絃」の記述が載る宋代の書物も管見ではあるが見付けられない。しかし「阮咸」は唐の開元中に雅楽に編入されていることもあり、宋代の宮廷に於いても用いられていた。したがって、宋代からはこの「阮咸」もしくは「阮」と呼ばれる楽器を追ってゆくことになる。
</p>
<p>
北宋の徽宗（1100&minus;1125）の頃、陳暘によって著された『樂書』には興味深い記述が色々と記されているのでまず取り上げてみたい。この『樂書』自体の研究は様々に為されているし、又全訳も試みられている様なので興味のある方はそちらを参照されたい。
</p>
<p>
『樂書』には円体胴に直頸型の棹を持つ楽器として「秦漢琵琶」「月琴」そして「阮咸琵琶」の三種類の楽器が記されている。
</p>
<p>
巻百二十九の樂圖論・胡部八音・絲之属下には「秦漢琵琶」として、次の様に記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">秦漢琵琶本出於胡人弦鼗之制圓體修頸如琵琶而小柱十有二</span>
</p>
<p>
【秦漢琵琶は西域の人によってもたらされた。弦鼗の制をもち円形の胴に真っ直ぐな棹で琵琶のようだが少し小さい。柱は十二有る。・・・・】
</p>
<p>
と記されているので、恐らく所謂「秦漢子」のことを謂っていると思われるのだが。
</p>
<p>
又、巻百四十一の樂圖論・俗部八音・絲之属には「月琴」としてこの様に記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">月琴形圓項長上按四絃十三品柱豪琴之徽轉絃應律晋阮咸造也唐太宗更加一絃各其弦日金木水火土自開元編入雅楽用之豈得舜之遺制歟大中 (詔)待詔張隠聳者其妙絶倫蜀中亦多能者</span>
</p>
<p>
【月琴は円形で棹は長く思うに四絃で、十三の柱は琴の徽に倣っている。絃を転じて様々な調に対応する。晋の阮咸が造った楽器である。太宗が(唐太宗となっているが宋太宗の誤り)更に一絃加え、其の絃をそれぞれ金、木、水、火、土とした。開元時より雅楽に編入され用いられた。まさに舜帝の遺制ではないか。唐、大中時、待詔の張隠聳(ちょういんしょう)なる者はこの技が絶妙であった。蜀にはこの楽器をうまく弾く者が多い。】
</p>
<p>
これは正に唐の阮咸のことを言っている。前記『樂府雑録』にも阮咸の達人として&ldquo;張隠聳&rdquo;の記述があるのでおそらく其処から引用したのかも知れない。「唐の太宗が一弦加えた」と記されているのは後記する様に「宋の太宗」の誤りなのだが、とにかくこの記述に依れば、この「月琴」は一絃加えられた五弦の楽器になっている。<br />
この五弦となった楽器については、巻百四十五の「阮咸琵琶」の条には以下の様な記述もある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">阮咸五弦本秦琵琶而頸長過之列十二柱焉唐武后時蒯郎(明)於古塚(冢)得銅琵琶晋阮咸所造元(亭)行沖(中)命工以木為之声甚清徹頗類竹林七賢圖所造舊器因以阮咸名之亦以其善弾故也太宗舊制四絃上加一絃散呂五音・・</span>
</p>
<p>
【阮咸は五弦である。もともとは秦琵琶だが棹が長く柱は十二個になっている。唐の武后の時、蒯郎が古い墓で銅製の琵琶を見つけた。晋の阮咸が造った楽器であった(晋の阮咸が作った琵琶の銅製のものを見つけた）元行沖が工人に命じて木で造らせたところとても清涼な音がした。舊器は竹林の七賢図に頗る類し、又この楽器を好んで弾いていた阮咸に因んで名付けられた。太宗が旧制の四絃に一絃加えた。散声は呂の五音になる。・・】
</p>
<p>
此処に、一回目の「隋・唐時代」で書いた「阮咸命名話し」が記されている。これは「月琴」の条に記したほうが適切ではないかと思うが、とにかくこの記述をそのまま受け取れば『楽府雑録』では阮咸とされていたものを月琴とし、その阮咸を五絃の阮咸琵琶としている。しかしどうもそれぞれの記述に交錯しているところが多い。ただ南宋・馬端臨の『文献通考』には殆どそのまま引用されているが。勿論北宋の時代にこの三種類の楽器が同時に存在していて実際に用いられていた、と云う訳ではないであろう。
</p>
<p>
陳暘謂う所の「秦漢琵琶」は、柳宗元の『絃子記』に依れば漢の時代、胡部の音楽をする者はこれを習っていたそうだが、六朝時代には所謂知識人の楽器になっていたし、隋・唐時代は中国的な音楽である清楽に用いられていた訳であるから、なぜ胡部の音楽に入られているのかよく判らない。「阮咸」は唐末の李匡乂・『資暇集』に依れば、唐末には已に「月琴」と呼ばれていたのかもしれないが、同じ唐末の『楽府雑録』には「阮咸」として記され「月琴」の名は見られない。この『樂書』の「月琴」の条には【按四絃十三柱・・・（思うに四絃で十三の柱・・・）】等と記されているので陳暘の時代、実際には「月琴」なる楽器はもう無かったのかもしれない。と言うより直頸円形型のものはこの時代已に「月琴」と呼ばれていなかったのかもしれない。【もし陳暘の時代に実際に月琴と呼ばれた楽器が存在していたとすれば&ldquo;按ずるに&rdquo;という言葉は用いないと思うのだが】同じ北宋の『事物紀原』には「阮咸」はただ「阮」と呼ばれる様になったとも記されているが、これらは勿論皆、唐の「阮咸」の流れを汲むものである。
</p>
<p>
とにかくこのように、宋の「阮咸」は太宗によって五弦の楽器に作り替えられている。このことは南宋・章如愚の『山堂考索』巻五十に、又『宋史』にも記されているが、『宋史』巻百二十六によれば、至道元年(995)に太宗によって「五絃阮」なる物が作られ、同時に作られた「九絃琴」の曲譜と合わせ新譜三十七巻も定められている。「五絃阮」の曲としては新しく宮調・鶴唳天弄、鳳吟商調・鳳来儀弄、の二曲が制定され、旧曲を新しくしたものは、宮調&mdash;四十四曲、商調&mdash;十三曲、角調&mdash;十一曲、徴調&mdash;十曲、羽調&mdash;十曲、黄鐘調&mdash;十九曲、無射商調&mdash;七曲、瑟調&mdash;七曲、碧石調&mdash;十四曲、慢角調&mdash;十曲、金羽調&mdash;三曲、　と記されているが現在に伝わっていないのでどの様な曲なのかは全く判らない。
</p>
<p>
又、陳暘の『樂書』にはこの「阮咸琵琶」条に当時の「五絃阮」の調弦を解明出来る手がかりとなる記述があるので、次回ではこの記述をもとにその調弦を解明し、また舊器と記されている当時の四絃の「阮咸」の調弦にも触れてみたい。
</p>
<p>
北宋の類書である『太平御覧』（李昉(りほう)・983年成書）には、琵琶の条に劉煕の『釈名』や傅玄の『琵琶賦』の記述が在るが、阮咸まで記述が及んでいない。又同じく李昉が関わった『太平広記』には前に書いた『国史異纂』や『廬氏雑説』の「阮咸命名話し」が記されているだけであるし、呉淑(ごしゅく)の『事類賦』には琵琶の条すら無い。劉孝孫の『事原』(これは若しかしたら南宋の書物かもしれないが。)の阮咸の条にはいつもの「阮咸命名話し」と『資暇集』からと思われる月琴の話しが少し載るだけである。又、陳暘の兄である陳祥道の『礼書』巻百二十四の「瑟」の条には、漢の琵琶や阮咸に若干触れている文章が在るが、【漢之琵琶箜篌晋之阮咸此皆倣琴瑟而為之歟(漢の琵琶、箜篌、晋の阮咸は皆琴や瑟に倣ってできたのか？)】と記されているだけであるし、王欽若の『冊府元龜』や、晏殊の『類要』にも阮咸の記述は無い。高承の『事物紀原』には「阮」の条は在るにはあるが、これも又『通典』や『資暇集』からの引用だけである。ただ咸豊肥なる人物が四絃十三柱のこの楽器を造ったとあるが、咸豊肥なる人物はいかなる書物からの引用なのか不明である。
</p>
<p>
この『事物紀原』には「阮咸」については目新しい記述は無いが、「嵆琴(けいきん)」の条に少し興味深い記述が在るので記しておきたい。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">杜摯賦序日秦末人苦長城之役絃鼗而鼓之記以為琵琶之始按鼗如鼓而小有柄長尺餘然則繋絃於鼓首而属之於柄末與琵琶極不彷彿其状則今嵇琴也是嵇琴為絃鼗遺象明矣・・・・今人又號嵇琴為秦漢子・・・</span>
</p>
<p>
【杜摯賦の序に秦末、長城の役に苦しんだ人びとが絃鼗を弾いていたとあり、これを琵琶の始めと記しているものもある。思うに鼗は鼓の小さいもので柄の長さが一尺余りあり、これを則ち鼓面から絃を繋いで柄の末に取り付ける。これはまったく琵琶を彷彿させるものではないであろう。其の形は今の嵇琴である。これを見れば嵇琴は絃鼗の形を今に残しているのは明らかである。・・今の人は嵇琴を号して秦漢子といっている。】
</p>
<p>
前記『樂書』巻百二十八の「奚琴」の条にも同じ様な事が記されているが、「嵇琴」は「奚琴」とも記され、唐・崔令欽の『教坊記』にも「嵇琴子」として現れている。又嵇康が造ったとも、奚族の楽器ともいわれ、最初は竹の棒で擦って演奏していたいわば胡弓系の先祖の様な楽器。（『事物紀原』には竹林の七賢人の一人である嵇康が作ったので嵇琴と名が付いたと言うのは、言い伝えとしても一理あると記されているし、又南宋末の陳元靚・『事林廣記』には正に嵇康が作ったと記されているが、どうも腑に落ちない話しではある・・。）
</p>
<p>
何れにしても北宋では胡弓系のこの「嵇琴」を「秦漢子」とも呼んでいたのかも知れない。
</p>
<p>
宋・江葉得の『崑竹論』は律呂の書物であったし（これは南宋の書物かもしれないが）、阮逸(天聖年間1023&mdash;1031、進士)の『皇祐新樂圖記』にも、又北宋の音楽のことで良く参考にされる沈恬(しんかつ1031&mdash;1095)の『夢溪筆談・補筆談』にも「阮咸」の記述は見当たらないが、この阮咸を北宋ではどんな人がどのように演奏していたのだろうか。
</p>
<p>
孟元老が著した『東京夢華録』には北宋の都、汴京での民衆の暮らしが生き生きと描かれ音楽に関する記述も多くあるが&ldquo;、「阮咸」に関しての記述は残念ながら見当たらない。文瑩の『玉壺清話』や邵博温の『邵氏聞見録』にも、又神宗、徽宗、欽宗の三代の逸話が記された『大宋宣和遺事』にも楽器の記述は無い。陳師道(1053&mdash;1101)の『後山居士詩話』や葉夢得(1077&mdash;1148)の『石林避暑録』には琵琶の絃の話しはあるが、「阮咸」の記述は無い。（この絃の話しは「糸の話し（三）」の中で取り上げたい）
</p>
<p>
その他幾らかの書物に目を通してみても、北宋代での「阮（阮咸）」の演奏等の様子を記述してある書物はなかなか見つけられないが、南宋・張邦基の『墨荘漫録（ぼくそうまんろく）』に北宋末での&ldquo;阮&rdquo;の演奏に触れた一節があるので取り上げてみたい。
</p>
<p>
『墨荘漫録』の序によれば、建炎元年(1127)、張邦基は楊州に閉居し、蔵書が好きでその住居を墨荘と名付けたとあるが、李剣国氏の考証に依るとこの書物は紹興18年(1148年)以後に作られたと推定されるらしい。（王曉平氏&mdash;『願文にひそむ俗文学』p18）<br />
その&ldquo;巻之九&rdquo;に北宋の都&ldquo;汴京&rdquo;での「阮」の演奏の様子に触れた一節がある。
</p>
<p>
『墨荘漫録』巻之九より
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">琴阮皆樂之雅者也琴則人多能之而藝精者亦衆至阮則人罕有造其妙者中都盛時有醴泉観道士王慶之頗有此樂同時有安敏修者以此藝供奉上前徽廟顧遇厚於倫輩二人者其能相抗予在京師皆嘗聴之慶之則間雅多則古曲優逸不迫敏修則變移宮徴抑怨取興雜以新聲然皆妙手絶藝也後慶之不知存亡敏修被虜北去未幾[]而南帰今習阮者未有能及此二人也&nbsp;</span>
</p>
<p>
【大意】
</p>
<p>
【琴と阮はどちらも雅(みやび)な音楽である。琴は演奏する人も多く、又上手な人も多いが阮はめったに成就する者がいない。其の中でも妙手と言えば都(汴京)が盛んだった頃に醴泉観の道士、王慶之がこの阮を大変上手に弾いていた。又同時に安敏修なるものがこの阮の演奏で皇帝につかえ厚遇を受けていた(？)。この二人はともに良きライバルであった。私が都に居たときこの二人の演奏を聴いた事がある。慶之の演奏は古曲が優れていてゆたっりとして雅びであった。敏修は五度転調など変化があるが、ただ新曲が少し乱雑かもしれない。しかしどちらも素晴しいものであった。後になり慶之は消息が判らなくなり、敏修は侵攻してきた&ldquo;金&rdquo;に捕えられ、北に連れ去られ未だ消息が分からない。南宋になった今、阮を習う者はいるがこの二人に及ぶ者はいない。】
</p>
<p>
この記述を見ると北宋では「阮」なる楽器は琴と同様に雅びな楽器として捉えられていた様だが、なかなか難しい楽器であったようだ。これらの「阮」は太宗に依って作られた「五絃阮」ではなく民間に伝わっていった四弦のものだと思うのだが、当時もまたかなり貴重な楽器であったのであろう。<br />
そしてこの王慶之と安敏修の二人の達人は、中国の激動の歴史の中に消えていった。
</p>
<p>
<span style="font-size: 130%; font-family: MS Gothic">追補</span>ー前記『大宋宣和遺事』には、政和二年(1112年)に徽宗依って賜れた宮中の宴で、美しい宮女に琴や阮を演奏させたことが記されている。この宴では殿上と階段で箏、竽、琵琶、方響、笙、蕭が合奏されたことが記されているが、琴と阮はこれらの楽器とは別に記されているので、やはり阮は、琴と同様に雅びな楽器として扱われていたようである。この阮は太宗に依って作られた&ldquo;五絃阮&rdquo;ではなく四絃のものであろう。また&ldquo;五絃阮&rdquo;については『玉壺清話』の釈文瑩が著した『續湘山野録』には次の様な記述もある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">太宗作九絃琴七絃阮・・・・・文瑩京師遍尋琴阮待詔皆云七絃阮九絃琴蔵秘府不得見</span>
</p>
<p>
【太宗は九絃琴と七絃阮を作られた・・・・文瑩は都で隈無く琴阮を尋ねたが、待詔達は皆、七絃阮と九絃琴は蔵に秘蔵されていて見ることが出来ないと云った。】
</p>
<p>
ここに記された&ldquo;七絃阮&rdquo;は明らかに&ldquo;五絃阮&rdquo;の誤りである。文瑩の生没は未詳だが、凡そ仁宗、英宗、神宗の間に（1022～1084)在世、活動していた人で、この『續湘山野録(湘山續録)』は『玉壺清話』が書かれた二年前すなわち1076年に撰述されている。この記述を見ると、太宗から凡そ80年程経たこの時代でも&ldquo;五絃阮&rdquo;は、尚も蔵に秘蔵されているような貴重な楽器であり、待詔といえども見ることすら出来なかったようである。このような&ldquo;五絃阮&rdquo;が民間に伝わるわけが無いが、これから少し時代が下った、陳暘の『樂書』には前記したように当時の太常楽工の俗譜から採った&ldquo;五絃阮&rdquo;の柱の律名が記されているので、この&ldquo;五絃阮&rdquo;なる楽器は貴重な楽器ではあったけれども、実際にも使われていたことが判る。
</p>
<p>
次回は、陳暘『樂書』「阮咸琵琶」の条に記された記述を手掛かりとして、五弦となったこの「五絃阮」の調弦を解明してみたい。
</p>
<p class="nextpre">
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</p>
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   </content>
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<entry>
   <title>絹絃の話</title>
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   <published>2007-12-24T04:19:26Z</published>
   <updated>2008-11-06T15:00:46Z</updated>
   
   <summary>その一 よく人に、絃は何ですかと聞かれることがある。そして絹糸です、と答えると、...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<h3>その一</h3>
<p>
よく人に、絃は何ですかと聞かれることがある。そして絹糸です、と答えると、昔の中国でも絹糸を使っていたんですかと、また聞かれたりもする。楽器の絹糸の伝統はいつごろからだろうか。現在の中国の楽器の絃はすでにほとんどが絹糸ではなく、スティール製のものになっているが、もちろんその昔はスティール製の絃などなかった訳で、であるならば、楽器の絃は最初から絹糸だったんだろうか。
</p>
<p>
楽器の絃はその張られる楽器がなければ存在しないのは自明のことであるが、中国の絃楽器の中で最も初期に現われたものといえば琴（現在の七絃琴とは形体が少し異なるものであろうが。)瑟の類で、その時期は郭沫若(かくまつじゃく)氏に言わせれば、&ldquo;秦琴の歴史&bdquo;の中で記述した様に春秋時代の初頭、もしくは西周後期の今から２８００～２９００程前らしい。【五胡十六国、前秦・王嘉の『拾遺録』巻二&rdquo;殷湯&rdquo;の条に殷の楽師である師延なる者が一絃琴を弾いていたと記されている。これを信ずれば殷の時代には已に一絃琴なる弦楽器が存在していたことになるが。・・ひとまずこれは伝説としておきたい。】
</p>
<p>
勿論琴、瑟などのある程度完成した楽器が出現する以前に、様々な素朴な弦楽器が存在していたと考えられるであろうが、絹弦を用いると言うのは当時の支配者の権威の下でしか行われなかった訳であるから、絹弦を製造すると言うのはその支配者の支配の下で行われた、組織的な出来事だったのであろう。
</p>
<p>
とにかくこの琴、瑟出現時期にすでに絹絃が存在していなければならないが、実は中国に於いての養蚕は殷の時代の中期ごろにはすでにかなり高度なものになっていたので、楽器の絹絃が作られる素地はもうすでに十分出来ていた。【中国の養蚕については布目順郎氏の『養蚕の起源と古代絹』を参考にした】殷中期から西周後期頃までは少なくとも５００～６００年程あるので、楽器の絃を作ることなど容易なことだったのだろう。以下、中国に於いて楽器の絃は書物にはどの様に記されているのか、幾らか調べたことを書いてみたい。
</p>
<p>
明代の音楽書の中でこんな一節を見つけた。弘治、辛酉（弘治１４年、１５０１年）に李文利(りぶんり)によって著された『大楽律呂考註(たいがくりつりょこうちゅう)』と言う書物なのだが、巻之三の&ldquo;楽器&rdquo;の章の巻頭に次の様な記述がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">夏書禹貢青州厥篚檿絲</span></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">蔡氏日檿山桑也山桑之絲其韌中琴瑟之絃</span></span>
</p>
<p>
上段<br />
【夏書(かしょ)の兎貢(うこう)の編には、青州は篚(ひ)と檿絲(えんし)を産するとある】（青州は明の永楽(えいらく)時に音州府といわれた今の山東省の北部あたり)
</p>
<p>
下段<br />
【蔡氏言うには檿(えん)は山桑である。山桑で飼った蚕の糸は強くてしなやかなので琴と瑟の絃にする】（ちなみに篚(ひ)は円筒形の竹かごである。）
</p>
<p>
上段の『夏書(かしょ)』とは孔子が編したと言われる『尚書(しょうしょ)』の篇名で夏王朝の時代のことを記したものだが、秦の焚書にあって散佚している。その後、漢の文帝のとき（前１７９～前１５７）、伏生が壁中に隠し蔵していたものを得た。これを『今文尚書(きんぶんしょうしょ)』といい伝承の正しいものの一つとされている。そこでこの『今文尚書』を当たってみると確かに『虞夏書』の&ldquo;兎貢&rdquo;の編に
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">&ldquo;厥斐、酓絲&rdquo;</span></span>
</p>
<p>
と記されていた。【字は違うが同じ意味】、又東晋の元帝（３１７～３２２）の時、梅賾(ばいさく)が献上した、漢・孔安国(こうあんこく)注の『尚書孔子伝』には
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">厥篚、檿絲：檿桑蚕絲中琴瑟弦</span></span>【篚（竹かご）檿糸：檿桑で飼った蚕の糸は琴や瑟の弦にる。】と記され、
</p>
<p>
その又注釈書でもある、唐・孔頴達(こうえいたつ)の『尚書正義(しょうしょせいぎ)』には次の様にも注釈されている。
</p>
<p>
【釈木に「檿桑(えんそう)は山桑(やまぐわ)」とあり郭璞(かくはく)（字、景純２７６～３２４）は「柘(シャ)の類」という。檿絲(えんし)はこの檿桑(えんそう)を食ってできた蚕の糸であるがじょうぶで琴や瑟の弦に適するのである】
</p>
<p>
又上記『大楽律呂考註(たいがくりつりょこうちゅう)』の下段に記述がある蔡氏というのは後漢の蔡邕(さいよう・１３２～１９２）のことで、ここでも又【檿は山桑でその糸は強くしなやかなので琴や瑟の絃にする】と記されている。
</p>
<p>
この様に『尚書』の「夏書」にはすでに檿絲（えんし）なる記述があるが&ldquo;夏&rdquo;は&ldquo;殷&rdquo;の前の時代であるから「夏書」というのは少し大げさにしても、しかし多分殷代中期頃には檿絲なるものが存在し、西周末～春秋時代にはすでに琴や瑟の絃に用いられていたのであろう。
</p>
<p>
もう一つ明代の書物を取り上げてみたい。明・朱権(しゅけん)の著した書物である。朱権(しゅけん)は寧献王(ねいけんおう)といわれ、明の太祖の十六子で号を臞仙(くせん)とも涵虚子(かんきょし)ともいい丹丘先生(たんきゅうせんせい)とも言われる。その朱権が永楽の癸巳(きし)（11年）1413年に著した『太音大全(たいおんたいぜん)』なる書物がある。琴の制度や弾法を記した書物だが、その巻之一の「辨絲法(べんしほう)」にも次の様なことが記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">禹貢青州厥篚檿絲<em>斉民要術</em>云柘蚕絲宜為絃清明響徹勝於凡絲伯牙用原蚕絲（原蚕二蚕也）</span></span>
</p>
<p>
ここにも又&ldquo;禹貢&bdquo;の青州・檿絲のことが記されていた。
<img class="img_R" src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/saiminyoujitsu.jpg" alt="斉民要術" title="斉民要術" width="100" height="133" />
そして『斉民要術(せいみんようじゅつ)』から引用して柘蚕(しゃさん)の糸が絃に宜(よろ)しいとあり、又伯牙(はくが)は原蚕(げんさん)の糸を用いたと記されている。
</p>
<p>
ここに記された『斉民要術(せいみんようじゅつ)』とはいかなる書物なのだろう。本当にこの様なことが記されているんだろうか。原蚕って何んだろう。そんな思いで「斉民要術』を繙いた。
</p>
<p>
『斉民要術』十巻は後魏（４３９～５４３）の賈思勰(かしきょう)が著した中国最古の農業書であった。その巻五の「種桑柘第四十五（養蚕附）」の条に確かにこの様に記されていた。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">柘葉飼蚕絲好作琴瑟等弦清鳴響徹勝凡絲遠矣</span></span>
</p>
<p>
【柘葉(しゃよう)」（中国で「柘」といえば「針桑(はりぐわ）のことで「山桑(やまぐわ）とは違う種類の桑らしいがこの時代にそのような区別があったかどうかは判らない）で蚕を飼うと好い糸がとれる。琴、瑟等の弦を作ればその音の響きの透徹なことは凡絲と比べればはるかに勝る】
</p>
<p>
そして&ldquo;原蚕(げんさん)&bdquo;のことに触れ、&ldquo;原&rdquo;とは&ldquo;再&rdquo;の意味だと記されていた。要するに原蚕とは一年に２度繭を作ることだと知った。そして又、「檿桑とは山桑をいう、桑に似ており、材は弓、車轅(しゃえん)を作るに適す」とも記されていた。
</p>
<p>
『斉民要術』の著された後魏（北魏）は鮮卑族の国であったが「秦琴の歴史」でも書いたように、この時代には直頸円体胴の漢式琵琶が流行っていた。もちろんそれらの琵琶はこの柘葉で飼われた蚕の糸が張られていたのであろう。
</p>
<p>
そして又、明・朱権の『太音大全』巻一の&ldquo;辨絲法&bdquo;には前記の記述に続いて少し興味深いことが記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">&hellip;&hellip;今只用白色柘絲為上原蚕次之非此二絲則擇其生繰者塩蔵繭者不堪用</span></span>
</p>
<p>
【柘絲は原蚕よりも上等なので今は只柘絲しか用いない。そしてこの二種類の糸は必ず生繰のものを択ぶ。塩蔵のものは用いるに堪えない。】
</p>
<p>
そして少し小さな文字で&ldquo;次の様にも記されていた。
</p>
<p>
【今の人は繭を蔵するのに多くは塩を用いる。これは糸の性質を常に保ち交易をするためである。この糸で作った絃を用いると丁寧に弾いても切れ易く、雨にあえばすなわちすぐに湿り鳴らなくなる。塩の性質が残っているからだ。市場で絃を売る者はほとんどがこの糸を使っている。絃の為には手間ひまを惜しんではいけない。このことを知れば絃は自分で作らなければならない。】
</p>
<p>
ここに記された&ldquo;生繰り&rdquo;というものは要するに繭の中で蚕が生きたままの状態で糸をほぐして繰るということである。又、塩蔵というのは塩の浸透圧を利用して(？）繭を乾燥させることなく長く保存することだが、もちろん中の蚕はこの時点で死んでしまう。(仮死状態かもしれないが現在の日本ではこの塩蔵繭は少し高級な繭のようである。）絃を作るには塩蔵繭の糸ではなく生繰りの糸でなければならないといっている。ところで、実は今日の日本の絹絃の原糸はすべてこの&ldquo;生繰り&rdquo;で繰られている。これが一番ねばりのある絃を作る訳だが、この記述をみるとすくなくとも６００年程前の明代にすでにこの生繰りが良しとされ、実際に行われていたことが知れる。当然この&ldquo;生繰り&rdquo;の伝統はそれ以前からあったものであろうが、この記述をみると生繰りの絃とそうでない塩蔵繭の絃とが混在していた様である。
</p>
<p align="center">
<span style="font-family: MS Gothic">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/taionntaizen1.jpg" alt="" width="150" height="438" />
&nbsp;&nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/taion-ss.jpg" alt="" width="175" height="438" />
</span>
</p>
<p align="center">
<span style="font-size: 80%"><span style="font-family: MS Gothic">『太音大全』巻一：辨絲法　（国会図書館蔵・北平図書館善本マイクロ）</span></span>
</p>
<p align="center">
&nbsp;
</p>
<p>
今のところ&ldquo;生繰り&rdquo;の記述はこの明・朱権の「太音大全」にしか見つけられないが、もしかしたら１０００年以上前からその様であったかもしれない。漢の時代の「楽府」（音楽を司る役所）には縄絃工(じょうげんこう)なる職も記されているし、もしかしたら絹絃が登場した周代からすでにこの&ldquo;生繰り&rdquo;であった可能性もあるが、当然ながら確認する術(すべ)がない。
</p>
<p>
しかし残念ながらこの伝統的な絹絃製造法は今日の中国ではあまりみられなくなってしまった。現在の日本で行われている絹絃製造法は、日本に朝鮮半島経由で養蚕が伝わった時期に一緒に伝わり脈々と伝承されてきたものなのか、又後世に楽器の絃として別に伝わったものであるかは検証する必要があろうかと思うが、この絹絃製造法の伝統は今日の日本に確かに受け継がれ、それは奈良「正倉院」の琴絃の残闕などにすでにみることができ、【只この絃がいつの時代のもので、又 &ldquo;生繰り&rdquo;で繰られた柘絲(しゃし)であるかどうかは判かりようがないし、日本で作られたものなのか、又は中国から持ち込まれた物なのかは確認ができていないようである。】現在でも生繰りで繰られた絹絃が様々な楽器に用いられている訳である。只、残念なことに今の箏は殆どが絹絃ではなくなっている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 130%; font-family: MS Gothic">追補</span>ー現在の中国では、政府の支持によって「蘇州民族楽器厰」で古琴の絹絃の製造が始まりそこで購入できるということである。
</p>
<p>
次回は、この他に絃のことが記されている書物や文章等をいくらか取り上げてそれに纏わる話しをしてみたい。
</p>
<p>
<a href="/shinkin/silkstrings/sono2/">＜その二 ＞に</a>
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【秦琴の歴史】柳宗元の三絃</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://akifukakusa.com/shinkin/2007/11/post_10.html" />
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   <published>2007-11-05T06:56:05Z</published>
   <updated>2008-12-27T09:40:22Z</updated>
   
   <summary>柳宗元の三絃 柳宗元の三絃 しかし、唐代の直頸リュート系の絃楽器の話はこれだけで...</summary>
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         <category term="1050柳宗元の三絃" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<h3>柳宗元の三絃</h3>

<p class="img_R">
柳宗元の三絃<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/history05.pdf" target="_blank">
<img class="none" src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/print.gif" alt="印刷用ＰＤＦファイル" title="印刷用ＰＤＦファイル" width="55" height="20" />
</a>
</p>
<p class="clear">

<p>
しかし、唐代の直頸リュート系の絃楽器の話はこれだけではない。前記、柳宗元（りゅうそうげん）の『絃子記（げんしき）』の話にまた戻りたい。
</p>
<p>
柳宗元、唐の大暦8年（773）年、河東（山東省）に生まれる。字は子厚（しこう）。河東の人なので、柳河東（りゅうかとう）、あるいは河東先生とも呼ばれる。徳宗（とくそう）の貞元9年（793年）の進士。元和14年（819年）に47歳で没している。韓愈（かんゆ）とともに古文運動の功労者で、韓柳（かんりゅう）と並び称されて唐宋八大家に数えられている。（中国学芸大事典）
</p>
<p>
その著書は『柳河東集（りゅうかとうしゅう）』、『龍城集（りゅうじょうしゅう）』、『永州八記（えいしゅうはっき）』等があるが、この『絃子記』は4条ほどしかない（もしくは残っていない）、小さな著作である。
</p>
<p>
その内の&rdquo;三絃&rdquo;の条に前記したように&rdquo;絃鼗&rdquo;の記述があるのだが、この&rdquo;絃鼗&rdquo;が柳宗元の言うところの三絃なので、この条が&rdquo;三絃&rdquo;とされているのではない。<br />
この子厚（しこう）が生きた唐の大暦～元和(766~820)の時代に&rdquo;三絃&rdquo;なる楽器が存在していたのである。次のような記述がある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">・・・余与呉門張聘夫交其父子子三代之間毎為酔心焉祖野塘以琵琶標特父小塘以提琴擅誉今聘夫遂以三絃鳴二四之間而不居参両之而後絶技帰焉其技在漢之先吾於是而聞秦音矣・・・</span>
</p>
<p>
【私は張聘夫（ちょうへいふ）なる人物と交友があった。私は、彼の祖父、父、そして聘夫と、この三人の演奏にはいつも心酔わされていた。<br />
祖父の野塘（やとう）は琵琶を以って良く知られ、父の小塘（しょうとう）は提琴（ていきん）を以って誉を擅（ほしいまま）にし、そして今、聘夫は二絃（提琴）と、四絃（琵琶）の間の&rdquo;三絃&rdquo;という楽器を演奏し、それは祖父、父に劣らずすばらしいものだ。しかし、彼の死後、その技（音楽）は絶えてしまったが、その音楽は漢以前のおもむきがあり、私はそこに秦の時代の音を聞いていた。】
</p>
<p>
このように&rdquo;三絃&rdquo;と言われる楽器が確かに唐の大暦、元和間に存在していたのである。この三絃は、まさか絃鼗が伝承されてきたものではあるまいが、その形体や制度の詳しい記述が為されていないので、胴体の形すらわからない。脈々と伝承されてきたものなのか、それとも張聘夫一世一代のものだったのか、それもはっきりしない。
</p>
<p>
しかし、唐代のこの当時に突然に&rdquo;三絃&rdquo;なる楽器が現われ、張聘夫一世一代のものであったというのは考えられないので、いつの頃からかは判らないが、とつとつと伝承され、弾き継がれてきたものであろう。
</p>
<p>
この&rdquo;三絃&rdquo;の条は、最初に三絃の&rdquo;絃鼗&rdquo;に触れ、そして四絃の漢式型の琵琶に変化したと言い、&rdquo;三絃&rdquo;の話になるという形を取っていて、次のような記述もあるので、
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">・・・・琵琶是已今之称三絃者左曰老中日中右日子合易卦陰陽三索得長中少之次・・・</span>
</p>
<p>
（この琵琶は前記、絃鼗のくだりで記述した月体に四絃の漢式琵琶）
</p>
<p>
おそらく四絃の漢式琵琶が三絃に変化したもののように思われるのだが。
</p>
<p>
また、漢式型の琵琶で三絃のものは、嘉峪関酒泉魏晋墓の壁画や前記泉州の安南市で発掘された煉瓦の彫刻に既に現れているが、南北朝においてはさまざまな書物の記述も、また石窟寺院の浮彫も、仏像の光背の飛天も、そのほとんどが四絃のものが多いようだ。これはすなわちここに記された&rdquo;三絃&rdquo;は隋・唐の時代に入ってから後に、四絃の漢式琵琶が、いつかわからないが、三絃に変形したものと考えられなくもないし、又東晋から数百年間脈々と伝承されてきたものを唐代に入って&rdquo;三絃&rdquo;と呼ぶようになったのかもしれない。
</p>
<p>
唐の開元中の&ldquo;教坊&rdquo;の見聞を記した崔令欽の『教坊記』には教坊の女性達が琵琶、箏、箜篌とともに三絃を習い、しゅう弾家と呼ばれていた、と記されているので、すでに開元以前から&rdquo;三絃&rdquo;と呼ばれていたようだ。【この三絃は五絃―五絃琵琶のこと―の誤字かもしれないが、『説郛』『古今説海』『唐人説薈』等に収められている『教坊記』では皆&ldquo;三絃&rdquo;と記されているので、今は&ldquo;三絃&rdquo;ということにしておきたい。】
</p>
<p>
つまり、隋の時代から&rdquo;秦漢子&rdquo;と呼ばれていた四絃の漢式琵琶がいつの日か三絃に変形したか、もしくは四絃の秦漢子とは別に三絃の制度も絶えることなく脈々と伝承され唐の時代には&rdquo;三絃&rdquo;と呼ばれ、阮咸出現以後も絶えることなく伝わったものではないだろうか。それはおそらく当時の&rdquo;阮咸&rdquo;よりも一回りも二回りも小さく、今の私が演奏している三絃である&rdquo;秦琴&rdquo;に酷似しているように思われる。
</p>
<p>
このように&rdquo;秦琴&rdquo;の三絃の伝統は少なくとも唐の時代あたりまでは遡ることができ【もしかしたら柳宗元が言うように&rdquo;絃鼗&rdquo;が三絃なのかもしれないし、また実際の事例があるように東晋あたりまで遡ることができるのかもしれない。】、また前記したように、その棹頭の如意状の形体は、そのまた遡ること500年ほど前の晋の時代に求めることができ、その基本的な楽器本体の形体は、そのまた遡ること数百年の漢の時代に出来上がったものである。【漢代に於いては円体胴の実際の事例は未だ無いが・・・。】
</p>
<p>
ちなみに糸の呼び方を太い方から老絃、中絃、子絃とするのは唐の時代から同じであったことがわかる。しかし、確かに大暦・元和間に張聘夫なる人物が演奏し、賞賛を博していた、この&rdquo;三絃&rdquo;なる楽器は宋代に継承された形跡が見当たらない。柳宗元が言うように張聘夫が死んでしまった後、絶えてしまったのだろうか。
</p>
<p>
そしてまた、この書物には柳宗元の音楽観のようなものも記されているので少し触れておきたい。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">・・・・・可尚一絃独奏況金玉其相此千古之直音一代之勁節也若乃呉俗和緩其音靡漫其人柔脆其徳沈酣和緩以振之易以豪靡漫以徼之易以襄柔脆以越之易以靭沈酣以湛之易以揚此奏曲之微以之移情動衆者也故非世職則不専非心感則不憐不学操縵不能安絃綸以緒終琰以拍傳・・・・</span>
</p>
<p>
「その独奏は金・玉にたとえてもいい。それは古のむかしから直に響いてくる音のようでもあり、今現在しか聞くことのできない力強い響きでもある。呉の風俗はたおやかで、その音楽はきめこまやかで美しい。その人は柔和で徳が深いのだが、この和緩（わかん）（＝ゆるくたおやかなもの）は振いおこせば、豪（＝強さ）に易り、靡漫（ひまん）（＝きめこまやかで美しい音）はつきつめ、妙なる音になれば、人の助けにもなる。柔脆（じゅうぜい）（＝柔和だがもろい）はのり越え秀でれば強くしなやかのものになり、深い心酔は極めれば高みに易る。<br />
これは演奏の奥義であり、これをもって情を移し、人々の心を動かす者である。それゆえに世職でなければ突き詰めて追究することもできないし、心が感じなければ、慈しむ心も持てず、訓練を怠れば（※）楽器をうまく操ることもできない。ただ、その入口だけで終わってしまう。琰（美しい玉）は磨いてゆくことによってその美しさを伝えてゆくことができる。」
</p>
<p>
（※&rdquo;操縵&rdquo;は皆と一緒に演奏すること。いわゆる&ldquo;セッション&rdquo;のようなものか。それによっていろいろ学ぶということであろうか。&rdquo;禮注云操縵雑弄也&rdquo;）
</p>
<p>
このような記述に出会うと、本当に音楽の心は千年以上前から変わっていないんだなあ、とつくづく思ったりもする。
</p>
<p>
【一応大意を、上記のようにしてみたが、この文章の大意は色々考えられるだろう。<br />
&ldquo;振&rdquo;、&ldquo;豪&rdquo;、&ldquo;徼&rdquo;、&ldquo;襄&rdquo;、&ldquo;越&rdquo;、&ldquo;靭&rdquo;、&ldquo;湛&rdquo;、&ldquo;揚&rdquo;等の言葉の意味のとらえ方は色々あると思う。もし適当な訳があればご教示願いたい。】
</p>
<p>
ちなみに三絃の三つの意味を&rdquo;天・地・人&rdquo;に喩えたり、前記『風俗通義』の琵琶の長さ三尺五寸を&rdquo;天・地・人&rdquo;と五行に喩えたりするのは漢・揚雄（字・子雲）の『太玄経』の影響を受けていると思われる。
</p>
<p>
今回はこのへんで終わりたいと思う。次回は宋代からのいきさつを書きたいと思います。
</p>
<p>
<span style="font-size: 130%; font-family: MS Gothic">追補</span>ーここまでの話は、林謙三氏、岸辺成雄氏をはじめ日本、中国の様々な研究者の人達に依って調べ尽くされた事で、私が最初に参考にしたのもこれら先人達の書物や研究でありますが、三割程度はすこし新しい記述も入っていると思います。特に柳宗元の『絃子記』は、これまで中国楽器関係の書物に取り上げられているのを見た事がないので、興味深いのではないかと思います。『絃子記』には&ldquo;三弦&rdquo;の他に&ldquo;提琴(ていきん）&rdquo;や&ldquo;箏&rdquo;の名人のこと等も記されているので何か新しい発見があろうかと思います。また私は中国語の専門家ではないので細かい所で誤訳があるかもしれないがご容赦願いたい。
</p>
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</p>
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   <title>【秦琴の歴史】隋・唐時代</title>
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   <published>2007-10-30T06:05:39Z</published>
   <updated>2009-01-04T15:08:12Z</updated>
   
   <summary><![CDATA[隋・唐時代 隋・唐時代 &nbsp; このように六朝時代大いに流行したこの琵琶は...]]></summary>
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      <![CDATA[<h3>隋・唐時代</h3>
<p class="img_R">
隋・唐時代<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/history04.pdf" target="_blank">
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</a>
</p>
<p class="clear">
&nbsp;
</p>
<p>
<img class="img_R" src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/biwa.jpg" alt="秦琵琶もしくは秦漢子" title="秦琵琶もしくは秦漢子" width="80" height="96" />
</p>
<p>
このように六朝時代大いに流行したこの琵琶は隋・唐時代になると&ldquo;秦琵琶&rdquo;とも総称され、隋・唐当時のものは「秦漢子（しんかんし）」と呼ばれるようになり、中国の独自色が強い清楽（清商楽）と言われる音楽に用いられていた。
</p>
<p>
『隋書』巻十五 志十 音楽下 には次の様な記述がある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">清楽其始即清商三調是也並 漢来舊曲 楽器形制并歌章古辭 與魏三祖所作者皆被於史籍・・・・其楽器有鐘 磬 琴 瑟 撃琴<span style="color: #ff0000">琵琶</span>箜篌 筑 箏 節鼓 笙 笛 蕭 篪 塤 等十五種為一部工二十五人</span>
</p>
<p>
この琵琶について『唐書』巻22によれば、次のようにも記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">初隋有法曲其音清而近雅其器有鐃鈸 鍾 磬 幢簫 琵琶 琵琶圓體修頸而小号日<em>秦漢子</em>蓋弦鼗之遺製 出於胡中伝為秦漢所作・・</span>
</p>
<p>
【隋のはじめには法曲があった。その音樂は清らかで雅楽に近い。楽器は 鐃、鈸、鍾、磬、幢簫 、琵琶を用いる。琵琶は胴体が円形で棹は真っ直ぐ付いており少し小さく秦漢子と呼ばれていた。思うに絃鼗の遺制か。胡中から秦代に伝わり漢代に作られた。】
</p>
<p>
また、前記『通典』(巻百四十四）、そして『舊唐書』(志巻九音楽二）にも同じく次のように記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">今清楽奏琵琶（※1）俗謂之<em>秦漢子</em>円体修頸而小疑是弦鼗（※2）之遺制傅玄云体円柄直柱有十二其他皆充上鋭下・・</span>
</p>
<p>
【いま清樂は琵琶を用いる。俗に秦漢子と謂れ、丸い胴体に棹は真っ直ぐ付いており少し小さい。疑ごうらくはこれは絃鼗の遺制か。傅玄も、円体胴に真っ直ぐな棹、そして十二の柱が付いていると言っている。その他のものは皆洋梨型をしている。（？）】
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-size: 80%"><span style="font-size: 90%">※1―『旧唐書』、『文献通考』では&ldquo;奏琵琶（そうびわ）&rdquo;になっているが、岸辺成雄氏は&ldquo;秦琵琶（しんびわ）&rdquo;の誤りであろうとされている。清・『淵鑑類函』は&ldquo;秦琵琶（しんびわ）&rdquo;となっている。<br />
※2―この弦鼗（げんとう）の&ldquo;弦&rdquo;は書物によって&ldquo;絃&rdquo;になったりするが、以後は&ldquo;絃&rdquo;に統一して記述する。</span></span></span>
</p>
<p>
『新唐書』は北宋・欧陽脩(1007~1072)等の奉勅撰であるが、これをそのまま信ずれば隋の時代から「秦漢子」なる楽器があり、『通典』に依ればおおよそ大暦(766~ 779)あたりでも使われていたことになる。この「秦漢子」なる楽器は六朝時代に流行った琵琶と同系統であることは明らかであると思うが、もう一つ、ここに「絃鼗（げんとう）」という記述があり、「秦漢子」はこの「絃鼗」の遺制であると記されている。これはすなわち漢代、に興ったとされている（このことは定かではないと思われるが）前記、漢式型の琵琶のそのまた源流に「絃鼗」なるものがあると言うことである。
</p>
<p>
ここで少し「絃鼗」について話をしたい。この「絃鼗」に関しての記述は、魏の杜摯（ドゥジまたはトシ）の言として様々な書物に現れている。
</p>
<p>
例えば『宋書』(梁の沈約・488年完成）巻19の琵琶についての一節には、傅玄の「琵琶賦」と『風俗通儀』に触れた後に、
</p>
<p>
&nbsp;<span style="font-family: MS Gothic">・・杜摯云長城之役<span style="color: #ff0000">絃鼗</span>而鼓之並未詳執實其器不列四廂</span>
</p>
<p>
【杜摯が謂うには&ldquo;長城の役で人々は絃鼗を弾いていた&rdquo;。これらは（傅玄琵琶賦、風俗通儀、杜摯）どちらが本当なのか未だはっきりしていない。この琵琶は朝会燕饗の楽歌には用いられていない。】 と記され、
</p>
<p>
また、南朝、陳（557&minus;589）の釈智匠（しゃくちしょう）の『古今楽録（ここんがくろく）』には次のようにも記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">琵琶出於<span style="color: #ff0000">絃鼗</span>杜摯以為興之秦末蓋苦長城役百姓絃鼗而鼓</span>（『古今楽録』は現存しておらず『初学記』巻16からのもの）
</p>
<p>
【琵琶は絃鼗から発展した。杜摯は秦末に興ったとしている。思うに長城の役で苦しんだ農民達が絃鼗を弾いていたのである。】
</p>
<p>
そして前記「通典」（明・李元陽校本）にも同じく次のように記されている。【これは上記
『宋書』からの引用であろうが】
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">・・杜摯曰秦苦長城之役百姓<span style="color: #ff0000">絃鼗</span>而鼓之並未詳執實其器不列四廂・・</span>（苦が若、役が設になっているが誤りであろう）
</p>
<p>
これらは皆【秦末、長城の役に苦しんだ人々が&ldquo;鼗&rdquo;に弦を張って、演奏して慰めにした】という主旨のものである。
</p>
<p>
&ldquo;鼗&rdquo;は周の時代&ldquo;播鼗&rdquo;と言われた、いわゆる振りつづみ（要はデンデン太鼓の少し大きなもの）。太鼓の部分を胴体にみたて、柄を棹にして弦を張った初期的な絃楽器が秦の時代に現われ、『古今楽録』ではそれが当時の琵琶（漢式）の源流であると言っている。
</p>
<p>
また、唐・徐堅（じょけん）(659ー729)の『初学記（しょがっき）』巻16や宋・李昉（りほう）(925ー996)の『文苑英華（ぶんえんえいが）』巻71に収められている隋・虞世南(558ー638)の「琵琶賦」にも次のように記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">・・・尋斯楽之所始乃<span style="color: #ff0000">絃鼗</span>之遺事強秦創其濫觸</span>
</p>
<p>
【・・この琵琶の始まるところを尋ねれば乃ち絃鼗の遺事である。それは秦の時代から始まっている。】
</p>
<p>
ここでもまた、琵琶（漢式）は「絃鼗」の遺事で秦から始まったとしている。（強秦創其濫觸【濫觴（らんしょう）物事のおこり】
</p>
<p>
そして後記するが、唐・宋・八大家に数えられている唐の柳宗元（りゅうそうげん）の『絃子記（げんしき）』の「三絃」の条にも次のようにある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">・・漢世胡部習之廣其月體増一絃以象四時則<span style="color: #ff0000">絃鼗</span>之窕・・</span>
</p>
<p>
【漢の時、胡部の音楽をする者は之を習った。その( 絃鼗）の丸い胴を広くし一絃加えら四つの季節を象った。則ち絃鼗が改良されたものである。（&ldquo;絃鼗之窕&rdquo;は絃鼗が改良されたということであろうか）】
</p>
<p>
そしてまた、唐の白居易も『白氏六帖事類集（はくしりくじょうじるいしゅう）』（約830年頃成書）巻18の琵琶の条で『古今楽録』を引用して、琵琶は絃鼗から出ているとしている。
</p>
<p>
このように六朝時代から唐代にかけて様々な書物で琵琶（漢式）は「絃鼗」から発展してきたと言っているが、その「絃鼗」はいかなるものなのかは、おおよそのイメージはできるが、あまりはっきりしない。
</p>
<p>
「絃鼗」の形体についての多少の具体的な記述がある書物は、思うにおそらくこの一書しかないであろう。それは唐・柳宗元の『絃子記』である。前記した記述の前に次のような「絃鼗」に関しての記述がある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">周楽器設播鼗職業所及制用絲結為縄如貫珠垂雙耳揺之還撃其面以成音協於鼉鼓之節自周失職武入於漢至秦末改此器引絲而長之以為絃加一以象川義棅出其上如繭之吐絲去鼗革代以蛇腹象仰盂承槩名日<span style="color: #ff0000">絃鼗</span></span>
</p>
<p>
大意
</p>
<p>
【周の楽器では播鼗は職業とされていた。その様態は、糸を結んで縄状にして、そこに玉を通したものを両耳が垂れたようする。それを揺らし、鼓面を撃ち、音を出して鼉鼓（だこ）と一緒に音楽の節目に合わせて演奏された。（周以後戦乱のためになくなり、漢にまた用いられた。）秦末にこの器が変化し、糸を長く引いて、おそらく一絃加えられ、川の意味を象どり、柄（棅）の上に、繭から糸が引き出されるように張られた。胴は革の代わりに蛇の腹の皮を用い、丸い鉢を仰いで受けるような形である。そして細いバチを用いてかき鳴らす（槩）。これを絃鼗という。】
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">追記ー「<span style="font-family: MS Gothic">自周失職武入於漢」の上記の訳は私の全くの誤訳で、『論語』巻九微子十八に記され、陳暘『樂書』巻八十五、九十に記されてある様に【周末に禮楽が壊れ</span>播鼗の職の武が漢水の地に行ってしまった為に失われてしまった】ということです。</span>
</p>
<p>
<img class="img_R" src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/gentou.jpg" alt="絃鼗" title="絃鼗" width="65" height="137" />
</p>
<p>
このようなものであるが、もしこれが本当だとしたらおそらく&rdquo;柱&rdquo;はついていなかったのであろう。
</p>
<p>
【ちなみにこの「絃鼗」は胡弓系の楽器の源流とされることもあるし（『事物紀原』宋：高承&rdquo;嵇琴&rdquo;の条）、また清初の学者でもある毛希齢（もうきれい）は、その著書『西河詞話（せいかしわ）』の中で&ldquo;三絃&rdquo;（現在の&ldquo;三絃&rdquo;と同じもの）の源流であるとまで言っている。しかし、この説には何の根拠もないであろう。】
</p>
<p>
しかし、この記述は柳宗元がいかなる書物を引用もしくは参考にして著したかまったくわからない。唐・宋八大家（とうそうはちたいか）と言われる柳宗元は唐の大暦8年（773年）に生まれ、元和14年（819年）に没している。秦末からすでにおよそ1000年の時が経ているので、前記傅玄「琵琶賦」の烏孫公主の話のように俄かには信じられないが、柳宗元の時代からすでにまた、1200年の時が経ている私たちは、なんとなく信ずるよりしかたがないのかもしれないが。
</p>
<p>
とにかく、このような「絃鼗」から発展して漢式琵琶たる「秦漢子」になったというわけであるが、しかし、このことも確たる証拠は今のところのないようである。中国の学者の中では「絃鼗」源流説を取る人も多いが、そもそも「絃鼗」なるものが秦の時代に本当に存在していたかどうかも定かではないように思われるのである。秦の時代から千年程経た唐・段安節の『楽府雑録』の鼓吹部の条に「絃鼗」なる記述が確かにあるが、千年の時を隔てたこの「絃鼗」をして秦代の「絃鼗」の存在証明をするのは難しいし、同じ楽器を意味しているとも思えない。
</p>
<p>
現代の中国、日本の学者の多くの文章には「柳宗元の三絃」の話しを見つけることが出来ないが、「絃鼗」を鼗鼓からの変形と考えるのは同じで、前記宋：高承の『事物紀原』にも同じ様なことが記されている。只「絃鼗」を三絃の楽器としているものが多いが、何故三絃としているのか良く判らない所がある。「絃鼗」が鼗鼓から出来たものだとすれば当然二絃であるのが自然であろう。楽器の絃数が増えるということはかなり高度な音楽的要求がなければならない。農民が弾いていたこの「絃鼗」を三絃としているのがどうも解せない。「絃鼗」の記述が最初に現れるのが上記『宋書』(梁の沈約・488年完成）に記され三国・魏の<span style="font-family: MS Gothic">杜摯</span>の文章であるが、この『宋書』編纂の当時ですら<span style="font-family: MS Gothic">杜摯</span>のこの文章の全文が残っていたかどうかも定かではないし、勿論三絃とも記されていない。
</p>
<p>
秦の時代から400年以上の時が経ている魏の杜摯がいかなる書物を参考にして「絃鼗」と言い出したのか判りようが無いし、<span style="font-family: MS Gothic">杜摯の時代にこの様な楽器を</span>「絃鼗」と言っていたのか、それとも秦代に「絃鼗」と呼ばれていたことを書物を通して<span style="font-family: MS Gothic">杜摯が知ったのか、それも判らないので</span><span style="font-family: MS Gothic">杜摯の造語とも考えられるが、</span>多くの古の官吏学者達がただこの一文を引用して様々な論述をしている様に思える。柳宗元などは三絃でしかも蛇の腹の皮とまでいっているが、勿論秦・漢代の書物の中に「絃鼗」のことが明記されているものは一書もないと思われる。もしかしたら唐代までは「絃鼗」に関する文献が存在していたのかもしれないが余りにも其の痕跡が無さ過ぎる。
</p>
<p>
秦・漢の時代前後にエジプトのネフェルのような楽器が伝わり、当時中国の鼗鼓を逆さまにして絃を張った様な形だったので、いつのまにか「絃鼗」【鼗に絃する、というような】と呼ぶ様になったのかもしれないが、この存在の不確かな「絃鼗」を漢式型琵琶の源流に於くのは少し無理がある様に思われる。しかし現在のところ「烏孫公主」のような伝説的な話はともかく、漢式琵琶はその源流を中国国内に求めるのが通説になっているが。
</p>
<p>
また前記したシルクロード西域のいくつかの事例の中には、当時中国文化の影響をあまり受けていないものもあり、漢式琵琶の源流をイランあたりに求めることができるかもしれないと言うことであるが、これもまた結論が出ていない。
</p>
<p>
この漢式琵琶が&ldquo;絃鼗発展説&rdquo;のように漢人の手によって創られたものなのか、あるいは、やはり西域から伝わった楽器にその源流を持つものなのかは、今のところ謎のままなのである。
</p>
<p>
「絃鼗」に関して最後に、中国に於いて最も早い時期の 「絃鼗」の図像として四川音楽学院出版の『音楽探索』に高文氏が提出された漢代の画像磚を取り上げてみたい。
</p>
<p>
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/gentoubig.jpg" alt="" width="401" height="367" />
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%"><span style="font-family: MS Gothic">四川音楽学院出版『音楽探索』1998年第2期(16〜17頁）作者 高文「我国最早的絃鼗図像」より引用しました。</span></span>
</p>
<p>
右の一人が竽を吹き、左の一人が瑟を弾き、真ん中の人が弾いているのが「絃鼗」ということらしい。軫が三つに見えるのでここから「絃鼗」三絃説が出たのかもしれないが、漢代のものなので中国中央音楽学院の鄭祖襄氏は秦代の「絃鼗」から漢式型琵琶になる過渡期の楽器の可能性もあるとされているが、推量の領域を出ない。
</p>
<p>
このように漢代に現われた、もしくは伝わったであろう【漢代のものは洋梨型かもしれないが】とされている円形の胴体に&ldquo;柱&rdquo;の付いた直頸の棹を持つこの種の絃楽器は、三絃や四絃、もしくはその大きさや形を少しづつ変えながらも、西域一帯や中国本土に広く伝わり、【２００６年に泉州の安南市豊州鎭皇冠山で２８の墓が発掘され、「太元三年(378年）」と刻まれた煉瓦とともに三絃や四絃の漢式琵琶の文様が彫刻されていた煉瓦も発見されているので、確かに東晋時代すでに南方まで伝わっていた。王蓮茂氏のレポート＜泉州の古典音楽と、伝統劇及びその海外への普及＞、もしくは『収蔵快報』２００８年第三期、陳建中、金光仁＜古楽器&ldquo;阮咸&rdquo;与音楽珍品&ldquo;南音&rdquo;＞を参照されたし。】中国本土において伝承されてきたものは琵琶と呼ばれていた。そして、隋・唐代になると「秦漢子」とも号され、清楽と言われる音楽の演奏に用いられてきた。
</p>
<p align="left">
&nbsp;
</p>
<p align="left">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou1.jpg" alt="" width="130" height="332" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou2.jpg" alt="" width="130" height="374" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou3.jpg" alt="" width="130" height="354" />
</p>
<p align="left">
&nbsp;
</p>
<div align="left">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou5.jpg" alt="" width="130" height="331" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou4.jpg" alt="" width="130" height="360" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou7.jpg" alt="" width="130" height="243" />
</div>
<div align="left">
&nbsp;
</div>
<div align="center">
<span style="font-size: 120%"><span style="font-size: 80%">２００６年に泉州の安南市豊州鎭皇冠山の東晋代古墓で発掘された漢式琵琶の文様の煉瓦）</span><br />
&nbsp;</span>
</div>
<div align="center">
<span style="font-size: 120%"><span style="font-size: 100%">『収蔵快報』2008年弟三期より</span></span><br />
</div>
<div align="left">
&nbsp;
</div>
<div align="left">
&nbsp;<span style="font-size: 120%">しかし、例えば龍門の石窟寺に彫られたさまざまな楽器の数を見てみると、唐代に下るにしたがって、いわゆる曲頸（きょっけい）と言われた「四絃曲頸琵琶」の事例が増え、この漢式系の琵琶の事例が減ってきているように唐代の胡楽全盛の中で琵琶と言えば「四絃曲頸琵琶」を指すようになり、中国の独自色が強い清楽（清商楽）の演奏に用いられてきた「秦漢子」なるこの琵琶は、その形体をひとまわり大きく改良され「阮咸（げんかん）」と命名された新楽器に変化してゆく。</span>
</div>
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</div>
<div align="center">
</div>
<p>
しかしこの「阮咸」も又、実は誰に依って、どのようにして作られ、又いかにして阮咸と命名されたか、そのいきさつ等については、実際の所どれも確実には判っていないのである。
</p>
<p>
阮咸の名の由来は、周知のように&ldquo;竹林の七賢&rdquo;の一人、阮咸から取ったものだが、そのいきさつについては『国史異纂（こくしいさん）』、『隋唐嘉話（ずいとうかわ）』『通典（つてん）』、『資暇集（しかしゅう）』、新、舊『唐書（とうじょ）』等に凡そ同じようなことが記されている。
</p>
<p>
『通典』（上海図書集成局遵武英殿聚珍版校印・光緒27年）には次のように記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">阮咸亦秦琵琶也而項長過於今制列十有三柱武太后時蜀人蒯郎於古墓中得之晋竹林七賢図阮咸所弾与此類同因謂之阮咸咸世実以善琵琶知音律称【蒯郎初得銅者時莫有識之太常少卿元行沖日此阮咸所造乃令匠人改以木為之聲甚清雅】</span>
</p>
<p>
大意
</p>
<p>
「阮咸はまた秦琵琶でもある【形体が秦琵琶と同じという意味であろうか】。棹は秦琵琶より長く、&rdquo;柱&rdquo;（フレット）は13個ついている。武太后時（684～704年）蜀（しょく）の人、蒯郎（かいろう）が古墓でこれを見つけ、晋の時代の竹林の七賢人の一人阮咸の弾いていた楽器と同じ類だったのでこれを阮咸といった。阮咸は当時琵琶を好み、音楽を知る人としてたたえられていた。【蒯郎（かいろう）が初め銅で出来た物を見つけたが（墓の副葬品であろう）当時は之がなんであるか判る者がいなかった。その後、太常少卿であった元行沖（げんこうちゅう）がこれは阮咸の作った楽器であるといい、職人に命じて木で作り直させたところ、とても清雅な音がした】」
</p>
<p>
又、北宋・李昉の『太平広記』（978年成書）の巻二百三、樂一、には『国史異纂』からとして次の一条が収められている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">元行沖賓客為太常少卿時　有人於古墓中得銅物似琵琶而身生圓　莫有識者　元視之日　此阮咸所造樂也　乃令匠人改以木　為聲清雅　今呼為阮咸者是也</span>
</p>
<p>
【 元行沖賓客が太常少卿であった時、ある人が古墓で、銅で出来ていて琵琶に似ているが胴体が円形の物を見つけた。これが何であるか判る者がいなかったが、元行沖が之を見て、これは阮咸が造った楽器であると言い、匠に命じて木でこれを作り直させた所清雅な音がした。今阮咸と呼んでいる物は是である。】
</p>
<p>
というようなことである。年代的に見ると『通典』の後半の【】内の記述はどうもこの『国史異纂』からの引用と思われるが、この元行沖の&rdquo;阮咸命名話し&rdquo;の方が後に広まり、「唐書」巻200列伝第125の「元澹（げんたん）字・行沖伝」にも取り上げられてしまっている。
</p>
<p>
そしてもう一つ唐・盧言の『盧氏雜説』のことにも触れておきたい。この『盧氏雜説』はあまり取り上げられていないが、そこに記されている「阮咸命名話し」は上記の&ldquo;元行沖&rdquo;の話しとは少し違っている。
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この著者である盧言の詳しい生没は判らないが、文宗の開成二年(837年)には已に員外郎の職に就いており、大中二年(848年)には大理卿の職を已に任ぜられているので、盧言の仕官年代はおよそ穆宗から宣宗の時期位になるそうである。この盧言についての詳しいことは周勛初氏の『盧言考』を参照されたい。【上海の学術月刊社「学術月刊」1987年四月号51~53頁】<br />
それによればこの『盧氏雜説』は現在では全文が伝わっておらず、前記北宋・李昉の『太平広記』に最も多く、六十六条が収録されているが、『紺珠集』『類説』『説郛』には一巻と記されている。他に『玉泉子』には十一条程の文章に、『盧氏雜説』からの引用と思われる文章が混ざっている。
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しかしこの「阮咸」の話しは『盧氏雜説一巻』には取り上げらておらず、また『玉泉子』にも見当たらないので、『太平広記』に収録されている六十六条中にしか見い出すことが出来ないが、そこには前記『国史異纂』からの一条の次に以下の様に記されている。
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<span style="font-family: MS Gothic">晋書稱阮咸善弾琵琶　後有發咸墓者　得琵琶　以瓦為之　時人不識　以為於咸墓中所得　因名阮咸　近有能者不少　以琴合調　多同之</span>
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<p>
【晋書には阮咸は琵琶を善くしたと讃えてある。後になり咸の墓を暴く者があり、瓦で作られた琵琶を得た。その時の人々は之が何か判らなかったが、おそらく、咸の墓から出てきた物ということで阮咸と名付けたのである。今では之を上手く弾く者は少なくない。琴を以て調を合わせるが大体琴と同じ様な感じである。】
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この様に記されている。
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年代的には『国史異纂』の記述が一番古いのだが、【この『国史異纂』は後記するように、
唐の天宝年間に在世した劉餗の著した『伝記』なのである。】盧言がもし『通典』なり『伝記』なりの書物を知っていたとしたら、銅器なる物を見つけた蒯郎の話しも、元行沖の話しもまったく信用していなかったということになるのだが。
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阮咸という楽器が現れてから、これらの書物が著された時代までは、たかだか百年位しか経っていないのに、何故このように記述が異なっているのか良く判らないところがある。
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とにかく阮咸が現れた当時は、前記したように秦琵琶、秦漢子なる漢式型の琵琶があったわけで、『国史異纂』等言うように誰もまったくこの種の楽器を知らなかったというのもあまり信用出来ない。当時秦琵琶から改良された新楽器が、このような棹の楽器を愛好していた竹林の七賢人の一人、阮咸にちなんで「阮咸」と命名されたわけだが、その命名の由来をもっともらしくするために、後になって様々な人によってこの様な話しが付会されと考えるのが一番合理的であろうか。
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しかしどのみち阮咸という楽器が誰に依って作られ、どのようにして世の中に現れてきたのかは、書物に依っての言い伝え以外には判らないのである。
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又、この阮咸の命名に関して、唐末・李済翁（りさいおう）【または李匡乂(りきょうがい】の『資暇集（しかしゅう）』には少し興味深いことが記されている。
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つまり唐の大暦中（766～779年）にこの「阮咸命名話し」の作り話が作られ（これはもしかしたら前記した『国史異纂』もしくは『通典』のことかもしれない。この阮咸命名話しが最初に現われるのがこれらの書物とおもわれる。）、そして再び司徒の汧公（けんこう）―李勉：李崖州―によって言いふらされたようなことが記されている。<br />
そして、楽器を人の名でもって呼ぶべきではないし、ましてや阮咸は昔の賢者ではないかと言って、その形が月に似て、その音が琴に似ているため、「月琴（げっきん）」と呼ぶのが宣しいとしている。
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後世、さまざまな書物にこの楽器を「月琴」と呼んでいるのは、この李済翁から始まっているようである。
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またこの命名話しの主人公にされてしまった太常少卿である元行沖は、その出身が異民族である拓跋鮮卑族（たくばつせんぴぞく）である。かつて彼らの民族が支配していた北魏にこの楽器が流行っていたということが、もしかしたら関係があるのかもしれないが。
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しかし、例えば日本『和名類聚抄（わみょうるいじゅうしょう）』源順（みなもとのしたごう）承平間　(931～937年)、&nbsp;&nbsp;&nbsp; 『新唐書（しんとうじょ）』宋・欧陽脩（おうようしゅう）(1007&minus;1072)、&nbsp; 『事物紀原（じぶつきげん）』宋・高承（こうしょう）、 『楽書（がくしょ）』宋・陳暘（ちんよう）、『事原（じげん）』宋・劉孝孫（りゅうこうそん）、 『文献通考（ぶんけんつうこう）』南宋・馬端臨（ばたんりん）等々、また後世のさまざまな書物に晋の阮咸がこの楽器を造ったと記されているが、もちろん晋の当時は琵琶と呼ばれていたこの絃楽器を阮咸本人が作ったのでは当然ないわけである。
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<p class="img_L">
<img src="http://akifukakusa.com/shinkin/photo/kuwanokinogenkan.jpg" alt="正倉院御物桑木阮咸" title="正倉院御物桑木阮咸" width="120" height="300">
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正倉院御物桑木阮咸
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元行沖が太常少卿になったのが711年くらいで、玄宗の世が712～756年、そして日本の聖武天皇の在位が724～749年。この元行沖の話と聖武天皇の遺品である正倉院の宝物、阮咸二面とを考え合わせると、行沖伝は作り話としても、「阮咸」という楽器が現われたのは、おおよそ唐の則天武后（684～704年）の後半から開元（713～741年）に入る少し前あたりと考えても良いのかもしれない。
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日本の<a href="http://shosoin.kunaicho.go.jp/" target="_blank" title="宮内庁正倉院ホームページへ">正倉院</a>に所蔵されている「阮咸」はまさに当時中国でも登場したての新進の楽器であった。今後もし、正倉院展に出展されることがあれば、是非見学される機会を持たれたい。
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また、大中年間（847～859年）の初年あたりにこの阮咸の名手として張隠聳（ちょういんしょう）なる人物が、唐・段安節（だんあんせつ）の『楽府雑録』等に記されている。
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このように、もはやかなり完成度の高い楽器となった阮咸は、この後、阮、月琴、阮琴、竜阮等と呼ばれ、宋、元、明と受け継がれていく。<br />
（正倉院所蔵の<a href="http://www.narahaku.go.jp/exhib/2002toku/shosoin/shosoin-3-2.htm" target="_blank" title="奈良国立博物館正倉院展ホームページへ">桑木阮咸</a>の袋に阮琴と書かれていて、その書体は奈良時代のものらしいので、奈良時代の日本では阮琴と呼ばれていたことがあったのかもしれない。）
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<span style="font-size: 130%; font-family: MS Gothic">追補</span>―「元行沖の阮咸命名，創造話し」が記されている『国史異纂』と『隋唐嘉話』のこと。
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唐の天宝年間に在世した劉餗の著した『伝記』三巻（旧唐書巻102・劉子玄伝）は北宋代には『国史異纂』とも呼ばれていた。この『国史異纂』も『伝記』も書物としては現在伝わっておらず、そこに記された&ldquo;元行沖の阮咸命名話し&rdquo;は北宋・李昉の『太平広記』（978年成書）に、『国史異纂』から引用された五十項目の一つとして&ldquo;巻二百三、樂一&rdquo;に収録されている。そして唐代に『伝記』と謂れ、北宋代には『国史異纂』とも呼ばれたこの書物から隋・唐代の逸話をまとめたものが『宋史』芸文志小説家類に『隋唐佳話』として記され、これが後に『隋唐嘉話』と呼ばれるようになる。
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このようなので『通典』が『国史異纂』を参考にしたと言う言い方は正確ではなく、もし本当に『国史異纂』に書かれた「阮咸命名話し」を引用していたとしてもそれは前記したように『旧唐書』巻一百二劉子玄伝の所に記されている劉餗の『伝記』と言う書物からであろうし、李濟翁が指摘した一つもこの書物であろう。
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こう考えると「元行沖の阮咸命名話し」が最初に現れた書物はこの劉餗の『伝記』とも思えてくる。阮咸と呼ばれる楽器が出現してから凡そ50~60年後の話しであるが、ただこの「元行沖の阮咸命名話し」は北宋に『国史異纂』とされたときに付け加えられている可能性もある。『伝記』と云う書物の完全な姿は今となっては判らないので確認することはできないが。
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またこれらの書物の事情は内山知也氏の論文「盛唐小説論の（四）逸話集」について&rdquo;を参照して下さい。
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<p style="text-align: center" class="nextpre">
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<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/siesar_pre.gif" alt="前に戻る" width="93" height="31" />
</a><a href="/shinkin/history/ryusougen/">
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</a>
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   <title>【秦琴の歴史】六朝時代</title>
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   <published>2007-10-30T00:47:17Z</published>
   <updated>2008-12-27T09:37:58Z</updated>
   
   <summary>六朝時代 六朝時代 傅玄の『琵琶賦』を信ずれば、直頸の柄に柱がついた円体胴の琵琶...</summary>
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      <![CDATA[<h3 align="left">六朝時代</h3>

<p class="img_R">
六朝時代<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/history03.pdf" target="_blank">
<img class="none" src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/print.gif" alt="印刷用ＰＤＦファイル" title="印刷用ＰＤＦファイル" width="55" height="20" />
</a>
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<p class="clear">

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傅玄の『琵琶賦』を信ずれば、直頸の柄に柱がついた円体胴の琵琶(批把）が漢代に現れた訳であるが前記した様に書物の記述にも疑問が残るし、実際の事例も今の所無いようである。
</p>
<p>
この漢式琵琶の事例が多く現れてくるのは、少し時代が下って3～4世紀の魏・晋代になってからである。亀茲（きじ）の遺趾のキジル石窟の壁画や、またスタインによって新疆省（しんきょうしょう）の天山南路ニャー遺跡から発見されたリュートの破片、(円体胴ではないかもしれないが）また敦煌莫高窟（とんこうばっこうくつ）の壁画や嘉峪関酒泉魏晋墓壁画（かよくかんしゅせんぎしんぼへきが）等、西域各地にこの種の楽器の痕跡や壁画の事例が多く現れてくる。
</p>
<p>
【その古墓（3～5世紀）の壁画に、四絃もしくは三絃の円形または少し梨形になっている胴体をもつ直頸の弦楽器の図が多く見られる酒泉の嘉峪関あたりは、秦、漢以前は月支国や烏孫があった地域で、前記傅玄「琵琶賦」の烏孫公主の話を考え合わせると、何か不思議な感じがしてくる。もしかしたら烏孫公主であった劉細君がこの地にこの種の楽器を伝えたのかもしれないし、反対にこの地方から伝わったものをあたかも漢人がその以前に伝えたかのごとく、烏孫公主の話を付会したのかもしれない。】
</p>
<div align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kayokukan3.jpg" alt="" width="160" height="136" />
&nbsp; &nbsp;&nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kayokukan1.jpg" alt="" width="160" height="149" />
</div>
<p align="center">
&nbsp;
六号墓　　　　　　　　　　　　一号墓
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<div align="left">
<div align="center">
</div>
</div>
<p align="center">
&nbsp;
&nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kayokukan2.jpg" alt="" width="160" height="158" />
&nbsp; &nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kayokukan4.jpg" alt="" width="160" height="170" />
</p>
<p align="center">
四号墓　　　　　　　　　　　　七号墓
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<br />
<div align="center">
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 90%">（甘粛人民芸術出版社・嘉峪関酒泉魏晋十六国墓壁画より）</span></span>
</div>
<p>
中国国内では例えば傅玄はその「歌詩」の中で琴や瑟よりこの琵琶を好むと言い、晋・裴啓（はいけい）の『語林』に記された琵琶も、晋・嵆康（けいこう）の『声無哀楽』に出てくる琵琶も、晋・孫該（そんがい）の「琵琶賦」も、そしてまた六朝宋・劉義慶の『幽明録（ゆうめいろく）』『世説新語（せせつしんご）」』に記された琵琶も、前蜀・杜光庭（とこうてい）『録異伝（ろくいでん）』に記された琵琶も、皆この漢式型の琵琶であり、周知のように阮咸もこの楽器を好んで弾じていた。
</p>
<p>
そしてこの晋代の琵琶の形体に関して前記漢代の琵琶に少し付け加えることができる記述が、晋・成公綏（せいこうすい）(231ー273)の「琵琶賦」の中にある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">盤図合霊太極形也・・分柱列位歳数成也・・</span>
</p>
<p>
これは円体形の胴に&ldquo;柱&rdquo;が歳数（12個であろうか）、あると言うもので前記傅玄と同じだが、下記のような記述もある。
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<img class="none" src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/text01.gif" alt="・・・物有容制惟此琵琶興自末世爾乃託巧班輸如意横施因形造美洪殺得宜柄如翠虬之仰首盤似霊亀之觜・・・・" width="470" height="55" />
<p>
【物には形と制がある（その容姿の訳がある）。惟うにこの琵琶は末世（道がすたれた時代）に創られたものではないだろうか。すなわち如意※をたくみに取り入れ託した。そしてそれを横にして形を美しくすれば（？）、