半生を、二年余りをかけて描いた絵日記です

  • 2013年1月12日 19:21

僕の名古屋の高校時代からの親友の父君が十数年程前に亡くなられました。名古屋友禅の作家(絵師)で、名古屋を中心に仕事をされていました。生きておられれば97〜8歳になろうかというお年ですが、生前にお孫さん達のために自分の半生を何かに残しておこうと思い立たれ、平成二年から、二年余りをかけて絵日記を描かれました。A4の紙を縦にして、上半分が文字で下半分が画の、100ページもあろうかという労作です。

文章はお孫さん達のために判りやすく書かれています。画は大正期から昭和初期の名古屋の風俗や人びとの生活から始まり、兵隊での生活、戦争のことなど、父君の半生が手にとるように描かれ、無謀なインパール作戦から生還された父君ならではの、戦争の愚かさ、平和への思いが綴られています。

最近、親族の方が自分たち用に数部製本され、それをお借りして読んでいます。親族の方達の了承の上で、数ページを紹介します。小さくて判り難らいですが雰囲気だけでも感じて下さい。

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当時名古屋は、観音様があった大須というところが一番賑やかだったそうです。伊勢の二見ヶ浦はわりと近いので、僕らの時代でも小学校の修学旅行でした。年の瀬にしめ縄を付け替える様子がいつもニュースになりますね。

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工事も人海戦術です。広小路というところは今では名古屋の中心ですが、当時は屋台が出てた通りだったんですね。

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召集令状、赤紙とも云われていました。これ一枚で軍隊にかり出されました。僕は戦後生まれで赤紙は見たことも無いですが、僕たちの世代(団塊の世代)にもまだまだ戦争の匂いが残っていました。子供の頃の雑誌には「零戦」や「戦艦大和」などがよく出てきていました。あの「あしたのジョー」の作者である、ちばてつや氏の当時のマンガに「紫電改(しでんかい)の鷹」と云うのがありました。この「紫電改(しでんかい)」というのは、いわゆる大日本帝国海軍が太平洋戦争中に開発した戦闘機の名前です。マンガの世界もこんなふうだったんですね。夢中で読んでましたね。「少年サンデー」と「少年マガジン」は創刊号から読んでいましたね。

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ジャングルでの生活の一こま。

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昭和十九年三月、無謀なインパール作戦が始まる。食料、武器弾薬の補給路はなく、戦況は悪くなり、日本軍はジャングルへ、ジャングルへと追いつめられて行った。食料もなく、栄養失調で赤痢、マラリアが蔓延し、夢遊病のようにさまよい歩き、バタバタと死んでいったそうです。あまりに使者が多く、誰ともなく白骨街道と呼んでいたということです。

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車にむらがり退却するも、イギリス軍の飛行機に攻撃される。

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くる日も、くる日も歩き、平野の村に出たけれど、そこでもまた二十機ぐらいのイギリス軍の飛行機に攻撃される。参加将兵約8万6千人のうち、戦死者3万2千人余り、そのほとんどが餓死者であったということです。

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このインパール作戦から、九死に一生を得られ捕虜となり、日本に生還されました。日記の最後には、お孫さん達に向けて、平和を願う文章が綴られています。父君のご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

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