- 2019年4月10日 19:14
そろそろ書こう、、無名の典型的な破滅的画家・漫画家だった八木義之介のこと。1930年生まれ、享年66才かな。
35年程前、東小金井の南口駅前には毎夜ラーメン屋台が一軒でていた。その屋台で僕ははじめて八木義之介と云う画家に出会った。「ファーイーストファミリーバンド」「観世音」とベースを弾いて演奏活動をしていたのを止め、秦琴だけでパフォーマンスをし始めて間もないころ、当時僕はまだ酒も飲んでいたのでふらりとその屋台に入った。
秦琴をキルティングの袋状の布に包み縛って肩にかけて持ち歩いていた、やや長髪のスナフキンみたいな一風かわった若者に(ま、彼から見てだけれど)八木さんは話しかけてきた。その翌日にいきなり家に来いと誘われたので行ってみるとに、まだ額装されてない八木さんの画が数十点、6畳か8畳ほどの部屋の壁一面に貼付けてあり、ほとんどの画が旅役者と思われるがんくび画だった。当時八木さんは旅役者の画を描いていた。無名といっても僕が出会った少し前までは共産党の機関紙「赤旗」の漫画を一手に引き受けていてなかなか羽振りが良かったらしい。
そんな屋台での出会いから十数年、「秦琴を聞く会」の会長と称してよくライブに来てくれていた、四谷の「コタン」には毎回のように来てくれて、僕も八木さんに連れられて旅役者小屋をはじめいろんなところに行った、彼の画家仲間の会でもよく演奏していた。「オホーツク便り」という手書きの新聞を自分でコピーして仲間内に配り皆を束ねていた。「終電車の人々」と題して、終電に乗っている人をその場で即興的に描いていた画が何十枚になっていた。シャガールが好きでピカソも好きで、木村荘八も好きで(多分)、冗談じみた「昭和のロートレック」というステッカーを作って貼っていた。
そうしているうちに彼は家族から離れて一人で暮らすことになり、ある日玄関先で倒れそのまま死んだ、死後一週間ほどして新聞配達に発見された。当然酒で死んでいる、酒癖はまったく悪くなかったけれど、口はけっこう辛辣だった。享年は66才だったと思うけれど。
僕は八木さんよりたくさん生きてしまった、書くことはいろいろあるけれどひとまずこのへんにしたい。
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