絹絃の話

その三【琵琶の皮弦についての諸説】

前回書いた様に、唐・段成式(?—863)の『酉陽雜俎(ゆうようざっそ)』巻六“樂”の条には段善本が皮絃の琵琶を弾いていたことが記されているが、この琵琶の皮絃については後世の様々な書物に記されているので少し書いてみたい。一応話しの内容を年代順にしてみた。

先ず最初には『 五代史補』(宋・陶岳)に記されている馮吉の琵琶を取り上げてみたい。この『 五代史補』の巻五には、五代の後唐と後周の宰相であった瀛王道(馮道、882-954)の子馮吉が皮絃の琵琶を巧みに弾いていたことが記されている。

 『五代史補』巻五 馮吉好琵琶の条

馮吉 瀛王道之子 能彈琵琶 以皮為弦 世宗嘗令彈於御前 深欣善之 因號其琵琶曰「繞殿雷」也。・・・・・

「 馮吉は瀛王道の子である。琵琶の演奏に優れ、皮を以て絃としていた。世宗は嘗て御前で演奏することを命ぜられたが、之を気に入り大変喜ばれた。因みてその琵琶を号して「繞殿雷」と云う。・・・」

  この様に記されている。雷の様に音が殿中をめぐったので「繞殿雷(繞・めぐる)」と云うのであろうが、この皮絃の音はよく雷に喩えられている。前回(その二)の唐・元稹(げんしん・779—831)の『元氏長慶集』巻二十六“琵琶歌”でも“雷吼のようだ”と喩えられているし、段安節の『樂府雑録』琵琶の条には、琵琶の達人として知られた康崑崙が、段善本(だんぜんぽん)の女性の弟子が弾く琵琶に驚くくだりが記されている。その音は【下撥聲如雷其妙入神「撥を振り下ろす音は雷のようでその妙は神懸かりのようである」】だったそうである。前記の様に段善本は皮絃の琵琶を弾いていたので、その弟子も又皮絃を用いていたのであろう。

ちなみにこの馮吉なる子は怠け者らしく、親の馮道が、出世は太常少卿どまりと嘆いた。馮道の宰相から見れば太常少卿なぞはかなり下位の官であろうが、当時の庶民から見れば贅沢な悩みでしょうね。何時の時代も親の悩みは一緒ですね。

 

次に宋代では欧陽脩(1007~1072 )の “杜彬琵琶皮作弦”が知られている。

 宋・欧陽脩の『欧陽文忠公集』“居士集”巻七の「贈沈博士歌」に次の一節がある。

・・・・・我昔被謫居滁山 名雖為翁實少年 坐中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作弦 自從彬死世莫傳 玉連鎖聲入黃泉・・・・・・

「・・・・私は昔左遷されて滁州に居た。翁と言ってもまだ年いかぬ頃である。坐中の醉客の中で誰が最も優れていたのであろうか。杜彬の琵琶は皮で絃を作ってあった。彼が死んでからは莫として世に伝わらず玉連鎖聲の音は黃泉の国に行ってしまった。・・・」

  欧陽脩の滁州左遷時代、彼の副官であった杜彬は皮絃の琵琶を上手に弾いていた。その杜彬の死を悼んでのこの一節は、"沈夫子胡為醉翁吟・・・”で始まる「贈沈博士歌」(一作 醉翁吟)中に見られ、後の世に “杜彬琵琶皮作弦”とし様々な人に取り上げられ、そしてまた様々に記されている。その幾つかを取り上げてみよう。

 

 陳師道(1053~1101)字・履常、無己、号・後山居士の『後山居士詩話』には次の様に記されている。(『稗海』78~81 より)

歐陽公謫永陽 聞其倅杜彬善琵琶 酒間請之 杜正色盛氣而謝不能 公亦不復強也 後杜置酒數行 遽起還內 微聞絲聲 且作且止而漸近 久之 抱器而出 手不絕彈 盡暮而罷 公喜甚過所望也 故公詩云〔座中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作絃 自從彬死世莫傳 〕皮絃世未有也

「欧陽脩は永陽(滁州の別名)に左遷されていた。副官の杜彬が琵琶が上手なのを耳にし、酒の席で弾かせようとしたが、杜彬は真顔で語気を強めて出来ませんと謝った。公もまた無理強いはしなかった。杜彬がいくらか酒を飲んだ後席を外すと、にわかに宴内に絲の音が微かに聞こえて来た。鳴っては止み、止んでは鳴りと段々近づいて来た。しばらくすると杜彬が琵琶を抱え出て来、止めることなく弾き続け、日が暮れて終えた。公は望んだ以上のことだったので大変喜んだ。故に公の詩にこの様に言っている。(坐中の醉客の中で誰が最も優れていたのであろうか。杜彬の琵琶は皮で絃を作ってあった。杜彬が死んでからは莫として世に伝わらなかった。)皮絃は世に未だ無い。」

 この様だが、欧陽脩と杜彬のやり取りをまるで見て来たかの様に記している。欧陽脩の滁州時代は慶暦5年〜7年(1045~1047)なので陳師道が生まれる前の話しだが、陳師道が19才の時に欧陽脩が死んでいる。陳師道は滁州に近い徐州の生まれであるし、共に当時の王安石の新法に反対であった。それ故に欧陽脩のことが色々耳に入り、実際にこの様なことがあったので親しみを込めて書いたのであろう。当時の北宋の都、東京(開封)に比べれば僻地であった永陽はあまり娯楽的な音楽も無かった様なので、この杜彬の演出は多いに公を喜ばせたことであろう。

又、唐の開元(713~741)の段善本、五代(907~960)の馮吉、北宋(11世紀中頃)の杜彬と、弾き継がれて来た皮絃の琵琶は、陳師道在世の11世紀後半頃には已に無くなってしまったようである。

 

陳師道より20~30年程後の葉夢得(しょうぼうとく、1077~1148)もこの話しを取り上げている。

 葉夢得(字・少蘊、号・石林)の『 石林避暑録(避暑録話)』巻二に次の様に記されている。

歐文忠公在滁州 通判杜彬善彈琵琶.公每飲酒.必使彬為之.往往酒行遂無筭.故其詩云.坐中醉客誰最賢.杜彬琵琶皮作絃.此詩既出.彬頗病之.祈(沂)公改去姓名.而人已傳.卒不得諱・・・・・琵琶以下撥重為難 猶琴之用指深 故本色有轢弦護索之稱 文忠嘗問琵琶之妙於彬.亦以此對.乃取使教他樂工試為之.下撥絃皆斷 因笑曰 如公之言.無乃皮為之耶?故有皮作絃之句 而好事者遂傳彬眞以皮為絃 其實非也 唐人記(説)賀懷智以鵾雞筋作絃 人因疑之 筋比皮似有可作絃之理 然亦不應得許長 且所貴者聲爾 安以絃為奇耶(明、項德棻校、明 項氏宛委堂刊より)

  「欧陽脩が滁州に赴任していた時、通判である副官の杜彬は琵琶が上手であった。公(欧陽脩)は酒を飲む度に必ず杜彬に琵琶を弾かした。度々になり数えきれない程になった。それ故に欧陽脩詩にこの様に言っている(坐中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作絃)。この詩が出たとき、杜彬は大変気にして名前の削除を公に願い出た。しかしすでに世に伝わり、結局タブーにはならなかったのである(隠し立ては出来なかったのである。)(?)・・・・・琵琶は撥を幾度も振り下ろすので難しいが、琴は猶指を用いて深みが有る。それ故本来の音色は「轢弦護索」の称がある。欧陽脩はかつて杜彬に琵琶の妙を問うた。それに応えて杜彬は使者に教えたが、樂工達がこれを試し撥を振り下ろしたところ皆絃が切れてしまった。それで公は笑ってこのように云った。皮絃は無いのか!だから“皮作絃”の句がある。しかし風流を好む人達は杜彬が本当に皮で絃を作っていたと世の中に伝えたが、事実はそうではない。唐の人は賀懷智は鵾雞の筋で絃を作っていたと記している。因みに人はこれを疑った。筋は皮に比べ絃を作るべき理屈があるようだが、優れていると賞賛してはいけない。そして又貴い音樂は絃を珍しいもので作ると言うことではないであろう。」

葉夢得は 陳師道より20~30年程後の人なのだが、ここでは皮絃のことをあまり評価していないし、事実とも思っていなかったようである。ただ前半では杜彬が気に病んだことが記されているが、欧陽脩の「贈沈博士歌」には“自從彬死世莫傳,玉連鎖聲入黃泉”とあるので明らかに杜彬が死んでから出来た詩である。死んでいる杜彬が気に病むはずも無いので 、この矛盾はどういう訳であろう。

 

このことについて南宋・呉會の『能改齋漫録 』"杜彬琵琶皮作弦”の条にはこの様にも記されている。『能改齋漫録 』は紹興24年〜27年(1154年~1157年)に編纂されている。以下

 『能改齋漫録』(南宋・呉會、字虎臣、)の巻五「杜彬琵琶皮作弦」の条

陳無己詩話 歐陽公謫滁州 聞其倅杜彬善琵琶 酒間請之 正色盛氣而謝不能 公亦不復強也 後杜彬置酒數行 遽起還內 漸聞絲聲 且作且止而漸近 久之 抱器而出 手不絕彈 盡暮而罷 公喜甚過所望也 故公詩云:〔座中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作絃。自從彬死世莫傳〕皮絃世未有也。以上此陳説 葉少蘊避暑録云 文忠在滁州 通判杜彬善彈琵琶 故其詩云 (坐中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作絃)此詩既出 彬頗病之 祈公改去姓名 而人已傳 卒不得諱 又云琵琶以下撥重為難 猶琴之用指深 故本色有轢絃護索之稱 文忠嘗問彬琵琶之妙.亦以此對 乃取使教他樂工試為之 下撥絃皆斷 因笑曰 如公之絃(言)無乃皮為之耶 故有皮作絃之句 而好事者遂傳彬眞以皮為絃 其實非也 唐人説賀懷智以鵾雞筋作絃 人因疑之 筋比皮雖有可作絃之理 然亦不應得許長 且所貴者聲爾.耳安在以絃為奇乎 梅聖喩醉翁吟亦云 當時醉翁滁州所樂者惟有杜彬弾琵琶 使誠有之 聖喩亦當以異見于詩也 以上皆葉説 予按陶岳五代史補云 馮道之子 能彈琵琶 以皮為弦 世宗令彈 深善之 因號琵琶為繞殿雷 乃知以皮為弦古有其法 而杜彬得之 葉為妄辨 無可疑者 且文忠公詩云 我昔被謫居滁州 雖名為翁實少年 坐中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作弦 自從彬死世莫傳 玉連鎖聲入黃泉 則公作此詩時杜彬已死後 葉安得有祈公改去姓名之説 哉予以意料之當是 葉只據兩句而遂為此説 又不考五代史補偶忘馮氏舊事耳 不然何[]誤之甚耶

「 陳師道の詩話にこのようにある。欧陽脩が永陽(滁州の別名)に左遷されていた頃、副官の杜彬が琵琶が上手なのを耳にし、酒の席で弾かせようとしたが、杜彬は真顔で語気を強めて出来ませんと謝った。公もまた無理強いはしなかった。杜彬がいくらか酒を飲んだ後、席を外すと、にわかに宴内に絲の音が起こり、徐々に聞こえて来た。鳴っては止み、止んでは鳴りと段々近づいて来た。 しばらくすると杜彬が琵琶を抱え出て来、止めることなく弾き続け、日が暮れて終えた。公は望んだ以上のことに大変喜んだのでこの詩がある。(坐中の醉客の中で誰が最も優れていたのであろうか。杜彬の琵琶は皮で絃を作ってあった。杜彬が死んでからは莫として世に伝わらなかった。)皮の絃はいまの世の中に未だ見られない。以上、此れは陳師道の説である。葉少蘊の『避暑録』は次の様に謂っている。欧陽脩が滁州に赴任していた時、通判の杜彬は琵琶が上手であった。それ故にこの詩がある(坐中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作絃)。この詩が出た時、杜彬は大変気にして名前の削除を公に願い出た。しかしすでに世に伝わり、結局タブーにはならなかったのである(隠し立ては出来なかったのである。)(?)。又云うには、琵琶は撥を幾度も振り下ろすので難しいが、琴は猶指を用いて深みがある。それ故本来の音色は「轢絃護索」の称がある。欧陽脩はかつて杜彬に琵琶の妙を問うた。それに応えて杜彬は使者に教えたが、他の樂工達がこれを試し撥を振り下ろしたところ皆糸が切れてしまった。それで公は笑ってこのように云った。皮絃は無いのか!だから“皮作絃”の句がある。しかし風流を好む人達は杜彬が本当に皮で絃を作っていたと世の中に広めたが、事実はそうではない。唐の人は賀懷智は鵾雞の筋で絃を作っていたと記している。因みに人はこれを疑った。筋は皮に比べ絃を作るべき理屈があるようだが、優れていると賞賛してはいけない。又貴い音樂は絃を珍しいもので作ると言うことだけではないであろう。また梅聖喩の醉翁吟に亦云うには、欧陽脩が赴任していた当時の滁州は、音楽としてはただ杜彬の弾く琵琶だけだったので、本当にこの様なことがあったのである。聖喩はまたこの詩に異なる見方をしている。以上は皆葉夢得の説である。私は思うのだが、『五代史補』にこのようにある。(瀛王道の子は皮絃の琵琶を巧みに弾いていた。世宗は演奏することを命じたが、大変喜ばれその琵琶を「繞殿雷」と名付けられた)。則ち皮絃は古くからその方法が有ることを知るのであり、杜彬はこれを得たのである。葉夢得のでたらめは疑いの無いことである。且つ又歐陽公の詩に、(私は昔滁州に左遷されていた。翁と言ってもまだ年いかぬ頃である。坐中の醉客の中で誰が最も優れていたのであろうか。杜彬の琵琶は皮で絃を作ってあった。彼が死んでからは世に伝わらず玉連鎖聲の音は黃泉の国に行ってしまった。)則ち公がこの詩を作った時は已に杜彬の死後である。どうして葉夢得は、姓名を取り除くように願い出たと言う説を取ることが出来るのであろうか。私はこのことから推測するに葉夢得は、(坐中醉客誰最賢,杜彬琵琶皮作弦)のこの両句だけでこの話しを作ったのであろう。また、『五代史補 』を考えず、馮氏のことは古いことだったのでたまたま忘れてしまっただけといえば、いやそうではない。この誤りは甚だしい。」

 この様に言っている。『四庫提要』に依ればこの『能改齋漫録』は考証が頗る詳しく南宋の説部の中の佳本らしい。確かに詳しく記してあり、やはり葉夢得の話しはおかしい所がある。ただ皮絃の話しは 『五代史補』の“馮吉好琵琶”で終わっており、『酉陽雜俎(ゆうようざっそ)』の段善本の皮弦の琵琶の話しに触れていないのが少し気になるが。

 

この『能改齋漫録』とほぼ同時期に書かれた、南宋・胡仔(1095?~1170)の『苕溪漁隠叢話』にはこの『酉陽雜俎』に気付いたことが少し記されている。『苕溪漁隠叢話』は前集60巻と後集40巻から成っているがそのどちらにも “杜彬琵琶皮作弦”の話しが取り上げられている。

 『苕溪漁隠叢話』前集巻第十六には

《後山詩話》謂 欧陽公谪永陽 聞其倅杜彬善琵琶 酒間請之 正色盛気而謝不能 公亦不復强也 後彬置酒数行 遽起還内 微聞絲聲 且作且止 而漸近 久之 抱器而出 手不絶弹 尽暮而罷 公喜甚 過所望也 故公詩云 坐中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作弦 自從彬死世莫傳 皮弦世未有也 苕溪渔隐曰 唐賀懐智于明皇時弹琵琶 以石為槽 鵾鶏筋作弦 用铁為撥 今杜彬以皮為弦 各自是一家也

「 《後山詩話》謂には、(同上)欧陽脩は永陽(滁州の別名)に左遷されていた。副官の杜彬が琵琶が上手なのを耳にし、酒の席で弾かせようとしたが、杜彬は真顔で語気を強めて出来ませんと謝った。公もまた無理強いはしなかった。杜彬がいくらか酒を飲んだ後席を外すとにわかに宴内に微な絲の音が聞こえて来た。鳴っては止み、止んでは鳴り段々近づいて来た。しばらくすると杜彬が琵琶を抱え出て来、止めること弾き続け、日が暮れて終えた。公は望んだ以上のことに大変喜んだ。故に欧陽脩の詩にこの様に云っている。(坐中の醉客の中で誰が最も優れていたのであろうか。杜彬の琵琶は皮で絃を作ってあった。杜彬が死んでからは世に莫として伝わらなかった。)皮絃は世に未だ無い。苕溪渔隐云う、唐の玄宗時、賀懐智は琵琶を弾いていた。槽は石で出来ており、鵾鶏の筋で絃を作り、撥には鉄を用いていた。今杜彬は皮で絃を作っている。各それぞれの仕方があるものだ。」

 後集巻第十には

苕溪渔隐曰 《後山詩話》謂 六一居士聞杜彬弹琵琶 作詩云 坐中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作弦 自從彬死世莫傳 皮弦世未有也 丙戌歳 居苕溪 暇日因閲《酉陽雜俎》 云開元中段師能弹琵琶用皮弦 賀懐智破撥弹之 不能成声 因思永叔 無己皆不見此説 何也

「 苕溪渔隐云う:《後山诗話》はこの様に謂っている。欧陽脩が杜彬の琵琶を聞き、詩を作って云うに:坐中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作弦。自從彬死世莫傳。皮弦世未有也。丙戌の歳(1166) 苕溪に居を構え、日がな『酉陽雜俎』を読んでみるとそこには、段善本が皮絃を用いて琵琶を上手く弾いていた。賀懐智がこの皮弦の琵琶を弾いた所撥が壊れて音が出なかった、とあった。因みて欧陽脩を思えば、誰一人もこの説を見ないのは何故であろう。」

この様に記されている。前集が完成したのは紹興18年(1148年)、後集が乾道3年(1167年)に成立している。これを見ると前集の頃にはまだ『酉陽雜俎』を読んでいなかったようで、後集が成立する1年前に『酉陽雜俎』よみ 段善本の皮絃の琵琶に気付いたようである。そして誰もこの説を取り上げ無いのをいぶかしげに思っているが、しかし嘗て欧陽脩が本当に知らなかったかどうかは定かではない。

 

『演繁露』程大昌(1123~1195) 序・淳煕7年(1180年)巻之十二「琵琶皮絃」の条

 葉少蘊石林語録謂 琵琶以放撥重為精 絲絃不禁即断 故精者以皮為之 歐公時士人杜彬能之 故公詩云 座中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮弾絃 因言 杜彬耻以技傅丐公為改 予考公集所載贈沈博士歌 誠有此兩句 然其下續云 自從彬死世莫傳 玉練繅聲入黄泉 則公詠皮絃時彬已死 安得有丐 恐石林別見一詩即陳後山 亦疑無用皮者 然元槇琵琶歌 傾聲少得似雷吼 纏絃不敢作羊皮 又曰鵾絃銕撥如雷 房千里大唐雑録載 春州土人弾小琵琶 以狗腸為絃 聲甚凄楚 合三物観之 以皮造絃不為無證 若詳求元語 恐是羊皮為質而練絲纏裹其上 資皮為勁 而其聲還出於絲 故歐公亦日玉練繅聲也

「葉少蘊『石林語録』はこの様に謂っている。琵琶の優れた演奏は撥を幾度も打ち放すので糸は如何しても切れてしまうことがある。それ故に賢い者は皮で絃を作る。欧陽脩の時代、副官の杜彬はこの皮弦の琵琶に優れていた。故に公の詩にこの様に云っている(座中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮弾絃)。因んでこのようにも言っている。杜彬はこの皮弦が伝わることを恥、公は改めたと。これを私が考えるに、「贈沈博士歌」が載っている欧陽脩の詩集に正にこの両句がある。そしてその下に続いて(自從彬死世莫傳 玉練繅聲入黄泉)の両句がある。これは則ち公が皮弦の句を詠じた時には已に杜彬は死んでいたのである。どうしてこの様なことがあろうか。恐らく石林は別の一詩を見たのであろう、則ち陳師道である。亦、元稹の琵琶歌に(少し雷吼のようになるので敢えて絃を羊皮で作らない)とあるように、おそらく皮弦は役に立たないであろう。又鵾絃を鉄撥で弾くと雷のようだ、とも云われている。房千里の『大唐雑録』に、春州の土人は小さな琵琶を弾き、犬の腸で絃を作っている、その音は大変物寂しいと書かれている。この三つのことを合わせて考えてみると、皮で絃を作るというのはまったく根拠が無いと云うことでも無さそうである。若し元々を詳しく語れば、恐らくこれは羊皮を質としてその上に練糸が巻き付けてあるものである。皮の資質は強いのでその音は還って糸より大きく出る。だから公は亦「玉練繅聲」とも云ったのである。」

この様に記されている。前記の葉夢得の『 石林避暑録(避暑録話)』には確かに楽工達の琵琶は糸が切れてしまったとは言っているが、賢者は皮弦を使うとは記されておらずむしろ反対のことをいっている。鵾絃を鉄の撥で弾くとその響きは雷のようであると云ってるが、そんなことが書かれている書物も見つけられない。むしろ皮絃が雷のようなのである。またここでは葉夢得の話しを批判しているが、『能改齋漫録』あたりからの引用であろうか。最後の部分の(羊皮為質而練絲纏裹其上)とは所謂琴の絃のような纏絃のことで、ここでは羊皮に絹糸を巻付けると言っているが、本当に琵琶にこのような絃を用いていたかどうかはあまり信用出来ないところである。

 

元代では楊瑀の『山居新話』に少し興味深いことが記されている。

 『山居新話』(元・楊瑀)の巻三に

畏吾兒僧閭閭 嘗為會福院提舉 乃國朝沙津愛護持(漢名總統)南的沙之子 世習二十弦(即箜篌也) 悉以銅為弦 余每叩樂工 皆不能用也 唐人賀懷智 以鹍雞筋為弦 歐陽文忠公詩 杜彬皮作弦 後人多疑之 以此觀之 或者亦可為爾 銅弦則余親見聞也 庸田監司左答那失裏 乃閭閭之親弟

「 ウィグルの僧・閭閭は嘗て會福院の提舉であった。すなわち我が国では沙津愛護持(漢名は総統)南的沙の子(?)で、代々二十弦(即箜篌)を習っている。その絃はすべて銅で出来ていた。私が楽工に尋ねる度に皆使うことが出来ないと云っている。唐の人賀懷智は鹍雞の筋を以て絃にし、歐陽文忠公の詩には、杜彬は皮で絃を作るとあるが、後の人の多くは之を疑った。しかし今この銅絃のことからこれらの話しを考えてみれば、或は本当のことかもしれない。銅絃は私が実際に見聞きしたことなのである。庸田監司の左答那失裏は閭閭の実の弟である。(?)」

ここでも杜彬の皮絃のことが取り上げられているが、それにしても興味深いのはこの時代銅絃があった記述である。この記述を見ると中国ではまだ使われていなかったようである。当然まだその技術も無かったのであろう。ウィグルの僧と云うからには西域から伝わった物かもしれない。この時代イラン・ペルシャやインドあたりでは已に銅絃の技術があったのかもしれない。そちらの方の歴史をひも解けば容易に判ることであろうが、とにかく中国ではこの時代にはまだ銅絃は使われてい無かったこは知れる。ただ銅絃の箜篌というからには現代のハープのような余程頑丈な楽器であったのであろうか。もしかしたら楊琴類の楽器の間違いかもしれないが。

 

『元史新編』

この書物は清の魏源が記したものであるが その「巻七十九・楽志」に『山居新話』から引用したのであろうと思われる上記の文章がある。

 

明の時代では、郎瑛の『七修類稿』に“皮弦”の条がある。

『七修類稿』(明・郎瑛)巻二十七 辯證類の “皮弦”の条

嘗聞開元中 有賀懷智善琵琶 以石為槽 以鵾雞筋作弦 用鐵撥彈之 至今傳以為異 不知宋仁宗時杜彬又過於賀 以皮為弦 促節清音 響徹林木 故歐陽有詩憶曰 坐中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作弦 自從彬死世莫傳 夫絲不如竹 竹不如肉 以其漸近自然也 皮去雞筋尤遠 而能獨步巧思 亦何所致也 宜其未有而來歐公之憶也 近時有能反手彈者 皆以為異 噫 亦陋矣

「かつて聞いたが、唐の開元中に賀懷智なる者があり琵琶に巧みであった。その琵琶は石を以て槽となし、鵾雞の筋で絃を作り、鉄の撥を用いて之を弾いていた。今では特別なものとして伝わっているが、宋の仁宗時の杜彬は賀懷智より尚又勝っているのを知らないのである。皮をもって絃となし、節を促し、すんだ音は林木を突き抜けて響き渡った。故に歐陽脩の詩に杜彬に想いを馳せたこの様な句がある「坐中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作絃 自從彬死世莫傳」。そもそも絲(弦楽器)は竹(笛類)には及ばないし、竹は肉(声)には及ばない。だんだんと自然に近づくということであるが、皮は雞筋とはまったく違うものである。独自に巧みな考えを思いついても、実際にはなかなか出来ないものである。歐陽脩の追憶があるのも当然であろう。最近は手で返し返し弾くことが出来る者がある。皆特別なものと思っているが、ああなんと見識が浅いものか。」(直しました。2010/5/11)

この著者である郎瑛は嘉靖丙寅(1566年)に80才になっているので、生まれは憲宗の成化23年(1487年)ということであるが死んだ年は判っていない。この書は嘉靖間に出版されている。『四庫提要』には鹵莽などと書かれているので粗雑なところもあるが、元、明代の史実、文学史、小説等の研究資料として一定の価値があるということである。これを見ると郎瑛は、鵾雞の筋の賀懷智よりも杜彬の皮弦の方が勝っていると考えていたようである。また今では当たり前の琵琶の手弾は明の嘉靖年代あたりにはまだ新しい奏法と見られていた。この手弾、つまり琵琶を撥で弾かず指で弾くことであるが、これは唐の貞観中(627~649)に裵洛兒なるものが始めているが、『通典』によれば徳宗の貞元中(785~804)あたりには廃れてしまっている。その後は撥弾きが主流になっているが、この『七修類稿』を信ずれば明の嘉靖間(1522~1566)あたりで、現在行われている手弾に大きく変化していったように思える。 

 

明・陳継儒(1558~1639)字・仲醇、号・眉公の『珍珠舟』巻一には、杜彬の皮絃の話しではないが、前記『五代史補』巻五「馮吉好琵琶」の条から引用したであろう一節が記されている。

馮道之子能弾琵琶以皮為絃世宗令弾深善之因号琵琶為遶殿雷

 

清代では藩永因編の『宋稗類鈔』巻七音楽の条に 「杜彬琵琶皮作絃」の話しが取り上げられている。

『宋稗類鈔』(序康煕・己酉 1669年)巻七

歐文忠公在滁州 通判杜彬善彈琵琶 公每飲酒 必使彬為之 往往酒行遂無筭 故有詩云 坐中醉客誰最賢 杜彬琵琶皮作絃 此詩既出 彬頗病之 祈公改去 姓名 而人已傳 卒不得諱・・・・・文忠嘗問琵琶之妙於彬 亦以此對 乃取使教他樂工試為之 下撥絃皆斷 因笑曰 如公之絃(言) 無乃皮為之耶 故有皮作絃之句 而好事者遂傳彬果以皮為絃 其實非也 唐人記賀懷智以鵾雞筋作絃 人固疑之 筋比皮似有可作絃之理 然亦不應得許長 且所貴者聲爾 安在以絃為奇耶 

これは明らかに『能改齋漫録』にでたらめと指摘された葉夢得の『 石林避暑録(避暑録話)』から引用している。相変わらず死んで恥じようも無い杜彬の話しが記されている。

 

清・陳元龍の『格致鏡原』には 上記、程大昌の『演繁露』からの引用の文章が記されている。

『格致鏡原』(序 雍正乙卯・1735年)巻46楽器類、琵琶の条

 程大昌演繁露 葉少蘊謂 琵琶以放撥重為精 絲絃不禁即断 故精者以皮為之 歐公時士人杜彬能之 故公詩日 杜彬琵琶皮弾絃 自從彬死世莫傳 玉練繅聲入黄泉 陳後山嘗疑無用皮者 然元槇琵琶歌 傾聲少得似雷吼 纏絃不敢作羊皮 又曰鵾絃銕撥響如雷 房千里大唐雑録載 春州土人弾小琵琶 以狗腸為絃 聲甚凄楚 合三物観 之 以皮造絃不為無證 若詳求元語 恐是羊皮為質而練絲纏裹其上 資皮為勁 而其聲還出於絲 故歐公亦日玉練繅聲也 

前記『演繁露』からの引用であるが、所々はしょってあるので少し意味が違ったものになっている。この文章からすると、陳後山が皮弦は役に立たないと云っているようだが彼はそんなことは云っていない。このように何も検証しないで引用し、誤字、脱字、付会が多いことは中国の古い書物ではよくあることなので、何処迄信用してよいのかは、難しい問題なのである。『秦琴の歴史』でも書いている“絃鼗”や“漢式琵琶”の記述等も日本と中国の学者との間で何処迄信用してよいのか見解が違うようである。

とにかく「 杜彬琵琶皮作絃」の話しはこのように宋、元、明、清と様々に書き継がれて来ている。これもひとえに欧陽脩の偉大さ故なのかもしれない。そして、勿論現在では琵琶の奏者で皮弦を使っている者は一人もいない。