絹絃の話

その二【楽器の絃にまつわる話し、一回目】

前回では、古代中国の絹絃の事情についていくらか判ることを書いて見たが、この回ではその他に楽器の“絃”について記されている中国の古い書物や文章等をいくつか挙げ、それにまつわる話をしてみたい。絹絃の楽器を演奏している音楽家には多少興味のあるのことかもしれないが・・・・

梁(502—557)蕭統の『文選(もんぜん)』弟八巻に収められている、前漢・枚乗(ばいじょう)(?—前140)の『七發』に次の一文がある。

・・・野繭之絲以為絃(野繭野蠶之繭也)・・・

野蚕の繭の糸を絃にする、と言っている。この野蚕の糸は前回の“柘糸”とは厳密に言えば違う物だろうか。それとも言い方を変えているだけであろうか。現在言う所の野蚕は野生の蚕のことであろうが、私の知人によると、この野蚕を集めて繭にしようとした所、升目の箱の中で繭にならず外に出てしまう程元気が良いらしい。この蚕とよく似た話しが元末・陶宗儀の『説郛』に収められている『賈氏説林』の中に記されている。

『賈氏説林』

蠶最巧作繭徃徃遇物成形有寡女独宿倚枕不寐私傍壁孔中視隣家蠶離箔明日繭都類之雖眉目不甚悉而望去隠然似愁女蔡邕見之厚價市帰繅絲製琴絃弾之有憂愁哀動之聲問女琰琰日此寡女絲也聞者莫不堕涙

大意

「蚕は最も巧みに繭を作るが、往々にして偶然に形に成る物もある。寡婦の女性が一人宿に泊まり、床に付いたが眠れずにいた。こっそりと、傍らの壁の穴から隣の家を覗くと、蚕が箔から出てしまっているのが見えた。日が明けてみると凡ての蚕が箔の外で繭になっていた。見た目はあまり良くないが、望みが去り内に力を秘めている愁女のようであった。蔡邕はこれを知り高値で買付け、持ち帰り糸を繰って琴の絃を作らせた。これを弾いたところ憂愁哀動の音がしたので娘の琰に問うた。すると琰は“此れは寡女絲ですね”と言った。涙を流さない者はいなかったと聞いている。」

蔡邕(132—192)は後漢の人で音律に通じて琴を善くした。琰はその娘でこの人も又琴の名手で、幼い時に父の弾く琴の、何絃が切れたのかを言い当てたそうだ。そんな彼女であるから、この絲の音の深みが判り寡女に喩えたのであろう。第一回目で書いた通り琴の絃には普通柘葉で飼われた蚕の糸である檿絲(えんし)なる糸が使われているのだが、この野蚕と思われる糸は、皆が涙する程に音に深みがあったのであろうか。この様な記述を見ると、少し大袈裟なところもあるけれど、二千年も前から音楽は人の心に語りかけてきたのですね。ただ実際、蔡琰は寡婦暮らしが長かったのでこんな話しが作られたのかもしれないが。

枚乗(ばいじょう)が生きた前漢の頃も、蔡邕(さいよう)の後漢に於いても養蚕は已に高度なものになっていたので、この“野蚕”は今と同じく高価なものであった、と云うことなのであろう。枚乗(ばいじょう)の『七發』は彼が梁の孝王に仕えていた時、太子に啓告する為に作られたものなので(中国学芸大事典)、琴の絃としては普通の檿絲(えんし)ではなく、特別な野蚕の糸を用いるとしたのであろうか。
しかし二千年も変わらず元気な蚕なのですねえ!

唐・欧陽詢(557—641)の『藝文類聚』に収められている、晋・孫諺(該・がい)の“琵琶賦”には次の様にも記されている。【『北堂書鈔』『初学記』『白氏六帖事類集』はすべて“孫該(そんがい)”】

・・・惟嘉桐之竒生于丹澤之北・・・弦則岱谷檿絲・・・

「ただ、良い桐は丹澤之北に生えている珍しいもので・・・絃は則ち岱谷の檿絲・・・」

この“琵琶賦”は勿論円体胴、直頸型の漢式琵琶のことを記したものだが、良い桐は丹澤の北に生えているもので、絃は岱谷の檿糸、と言っている。この檿糸は琴の絃のみならず、琵琶の絃にも用いられていたことが判る。又桐のことが記されているので、この頃(1700年程前)から桐が用いられていたことが知れる。当然胴体の腹板の部分であろう。
岱谷は泰山のことであろうが、しかし当時の丹澤とは何処のことだろう。

孫該と同じ晋代の善弾琵琶者として知られる阮咸もやはり絃にはこの檿糸を使って琵琶を楽しんでいたのでしょう。

唐の盧綸(ろりん)(779〜804)の詩中に

玉鼻琵琶五色絲・・・・(『海録碎事』巻16琵琶門より)

玉鼻の琵琶の絃が五色の糸で縒られたものなのか、絃が五絃の琵琶で五色なのか判らないが後者だとしたら“五絃琵琶”と言うことになる。(周知のように“五弦琵琶”の現物は正倉院に一面残るのみ。)

いろいろな色の繭:これらの繭の色はまったく自然の色なので、玉鼻の琵琶の“五色絲”はあながち根拠が無いことではないのである 。(提供ーシルクラブ)

 

唐・段成式(?—863)の『酉陽雜俎(ゆうようざっそ)』巻六“樂”の条には

古琵琶用鵾鶏股(筋)開元中段師能弾琵琶用皮絃賀懐智破撥弾之不能成聲

「いにしえは琵琶に鵾鶏(とおまる)の筋の絃を用いていた。開元中(713—741)、段師は皮弦を用いて琵琶を良く弾くことが出来た。賀懐智がこれを弾いたが撥が壊れて音楽に成らなかった(音も出なかった)。」

段師とは庄嚴寺の和尚の段善本(だんぜんぽん)のことで琵琶の名手であった。この時代になると琵琶と言えば“四絃曲頸琵琶”を指すのだが、この段善本は貞元中(785—805)に、これ又琵琶の達人として知られた康崑崙(こうこんろん)にその奏でる音に邪声があるとして十年間楽器に近づくことを許さなかった人物とされている。この記述を見ると段善本は皮弦を使っていた様だ。さしもの賀懐智もこの皮弦には撥が壊れて音も出なかった、と言う話しであるが、皮絃の記述が見られるのは私の知る限りではこの『酉陽雜俎(ゆうようざっそ)』が初めてではないかと思う。この後、皮絃の話しは色々な書物に現れるが 後々取り上げてみる。

そして又、いにしえの琵琶は鵾鶏(とおまると言う鶏の一種)の筋の絃を使っていた、と記されているが、実はこの賀懐智も相当な音楽家で、鵾鶏の筋の絃を使って琵琶を弾いていた話しが、段成式の息子である段安節の『樂府雑録』に記されている。

『樂府雑録』

開元中有賀懐智其楽器以石為槽鵾鶏筋作絃鉄撥弾之・・・

「開元中(713—741) に賀懐智なる者がいた。その楽器は石を以て胴とし、鵾鶏の筋で絃を作り、鉄の撥でこれを弾いていた・・・・」

このようなものだ! しかしこれが本当だとしたらすごく重いでしょうね。そして鉄の撥で弾いていたのだから、絃は鵾鶏の筋を何本も撚り合わせた丈夫な物であろう。ただどうしてこの様な琵琶を作ったのか、今の感覚からすると良く判らないところもあるが、もしかしたらこの賀懐智はかなりの大男でこの石槽の琵琶を軽々と弾いていたのかも知れない。

宋・楽史(910–1007)の『楊太真外伝』に、賀懐智がこの石槽の琵琶を玄宗皇帝と楊貴妃の前で演奏したことになっているが、どんな音がしたのだろう。

この賀懐智と段善本と康崑崙に関して唐・元稹(げんしん・779—831)の『元氏長慶集』巻二十六“琵琶歌”には次の様なことも記されている。

琵琶宮調八十一調旋宮三調弾不出玄宗偏許賀懐智段師此藝還相匹自後流傳拍撥衰崑崙善才徒爾為澒聲少得似雷吼纏絃不敢弾羊皮・・・・

大意

「琵琶の調は三調を基に、旋宮をして八十一調を作る。玄宗は賀懐智を偏って賞賛した。段師の技は尚又賀懐智に匹敵するものであったが、世に広まった後衰えてしまった。崑崙は才能の有る人物である。音がこもり、すこし雷吼のようになる為、敢えて絃を羊皮にしなかった・・・。(纆絃は一番太い絃のことかもしれない。又、琴の絃の様に芯の絃に細い糸を巻付けたものを纆絃と云うが、琵琶にこのような絃を用いていたのかもしれない。)」

前記『酉陽雜俎』よると段師は皮絃を使っていたのだが、その教えを請うた崑崙は敢えて皮絃を使わなかったようである。この当時は様々な絃を用い人それぞれの音色を追求していたようだが、現在では絹弦にしろ、スチール絃にしろ、なにか画一的になっている様な気がする。音の音色にそれほど重点を置かなくなってしまったのだろうか。又、羊皮と記されているので、この皮絃は羊の皮で作られていたようである。

玄宗は賀懐智を重用していたようだが、賀懐智が玄宗皇帝に上手く取り入っていたことは『酉陽雜俎』にこんな話しもある。

『酉陽雜俎』

【ある時、賀懐智が玄宗皇帝と楊貴妃の前で演奏していると楊貴妃の襟の布が風に吹かれて彼の頭巾の上に落ちた。賀懐智が家に帰るとあまりに良い香気が移っていたのでその頭巾を袋に入れて仕舞って於いたそうだ。その香気の滲み込んだ頭巾を楊貴妃が殺されて嘆き悲しんでいた玄宗皇帝に献上した。】
と言う様なことが記されている。この当時の取り入り方も何とまあ優雅なものだ。だけどこんなことしたら余計に悲しくなるでしょうね。

唐・鄭処誨の『明皇雑録』の一節から

中官白秀貞自蜀使回得琵琶・・・・・・

「宦官の白秀貞が蜀の使いから帰り、琵琶を持ち帰ってきた・・・」とあり、前記、宋・楽史(910−1007)の『楊太真外伝』にはこの琵琶の絃についての記述がある。(『明皇雑録』には何故か絃についての記述は無く、年代的には遅く書かれている『楊太真外伝』に絃の話しが追加されているのは少し疑問なのだが。)

『楊太真外伝』

中官白秀貞自蜀使回得琵琶・・・・・・絃乃未可彌羅国所貢緑冰蚕絲也・・・

「宦官の白秀貞が蜀の使いから帰り、琵琶を持ち帰ってきた・・・絃は乃ち未可彌羅国が献上してきた緑の冰蚕絲である・・・・」

宦官の白秀貞が蜀から使者として帰り、その時得た琵琶を楊貴妃に献上したのだが、その張られた絃は未可彌羅国(今の西パキスタン辺りに在った国らしい)からの貢ぎ物の冰蚕絲で出来ている、と記されている。

ちなみにこの“冰絃”は『元史』巻六十八の琴の一節にもその絃として記され、琴の絃の代名詞にもなっている。要するに冰蚕の繭から繰られた糸で作られた絃と言うことだが、この冰蚕と言うのはものすごい蚕らしく、五胡十六国時代・前秦の王嘉『拾遺記』に依れば、【山中の霜雪の中に住み長さが七寸位(22〜23cm位)、黒色で角と鱗が在り一尺程の繭をその雪中に作る。色が五色に輝きその糸で布を作れば水に入れても濡れず火に投じても燃えない】、と言う代物だそうである。

その昔に本当にこんな蚕がいたのかどうかはちょっと信じられないが、前記『楽府雑録』の“康老子”と言う曲の逸話にこんな話しも記されている。

『楽府雑録』“康老子”

康老子即長安富家子落魄不事生計常與国楽游處一旦家産蕩盡偶一老嫗持舊錦褥貨鬻乃以半千獲之尋有波斯見大驚謂康日何處得此是氷(冰)蠶絲所織若暑月陳於座可致一室清涼即酬千萬康得之還與国楽追歓不經年復盡尋卒後楽人嗟惜之遂製此曲亦名得至寶
明皇初納太真妃喜謂後宮日予得楊家女如得至寶也遂製曲名得寶子

大意

「康老子は長安の富豪の家の息子であった。豪快な性格で家計を顧みず音楽などに遊び呆けていたので一旦は財産を使い果してしまった。たまたま一老婆が古い錦の敷物を持っていて、それを売っていた。そこで彼は半千で之を得た。ペルシャ人に尋ねてみると大変驚き康に向かってこう言った。此れを何処で手に入れたのですか。是は氷(冰)蠶絲で織ってあり、暑い月にはこれを敷けば一部屋が涼しくなるというもので、千萬の価値があるものです。康はこれを得ても尚又音楽に呆けていたので、年経たずして又財産を使い果し自殺をしてしまった。その後楽人がこれを嘆き此の曲を作った。又、名を“得至寶”と言う。

玄宗皇帝が初めて楊貴妃を娶ったとき、喜んで楊貴妃にこう言った。“予は楊家の女を得た。まるで最高の宝物を手に入れた様だ(得至寶)。” そしてこのことから“得寶子”と云う曲が作られた。」

このような記述を見ると唐の当時でも氷(冰)蠶絲の織物は相当高価な物であったようである。今でも絹のペルシャ絨毯は高価な物だけれど。しかし冰蚕なるものが本当にいたとは信じられないが、『楊太真外伝』には“緑冰蚕絲”とあるので、綺麗な淡い緑色の糸になる“天蚕”なのかもしれない。

淡緑色している天蚕の原糸  (提供ーシルクラブ)

 

【次回に続く】