秦琴の歴史

北宋時代

第二回は宋代からの「阮(阮咸)」の経緯について話をしたいと思う。

— 北宋代に於いて ―

前記した様に漢代に現れ「批把(琵琶)」と記され、円体胴に直頸の棹を持ち四弦とされている楽器は、(漢代に確かにこの様な形体であるかは疑問だが)六朝時代おおいに流行し(三条の弦を持つものも現れているが)隋・唐の時代になるとそれらの楽器は総称して“秦琵琶”と呼ばれ、隋・唐当時のものは「秦漢子」と号されていた。その後、形が一回り大きくなり「阮咸」と名付けられ、後に「月琴」とも「阮」とも称される様になった。「月琴」という呼び名のことは「隋・唐時代」の章に取り上げた、唐末・李済翁(りさいおう、または李匡乂、りきょうがい)の『資暇集』の話を参照されたし。

この、「阮咸」と名付けられた楽器は、唐の開元中に雅楽に編入されていることもあり、宋代の宮廷に於いても用いられていた。したがって、宋代からはこの「阮咸」もしくは「阮」と呼ばれる楽器を追ってゆくことになる。

ちなみに「阮咸」を「阮」とも呼ぶようになったのは宋代からとしていることが多いが、『太平広記』巻二百十四“畫五”の「雜編」の条に『盧氏雜説』からの引用として次のような一節がある。

・・・・椅 玄質子  紹孫 高雅博古 善琴阮。・・・・・
「・・・绍孫は高雅で博識があり琴や阮を好んで弾いていた。・・・・」

『盧氏雜説』は唐末には完成しているので、「阮咸」は唐末には已に「阮」とも呼ばれていたのかもしれない。

  北宋の徽宗(1100−1125)の頃、陳暘によって著された『樂書』には興味深い記述が色々と記されているのでまず取り上げてみたい。この『樂書』自体の研究は様々に為されているし、又全訳も試みられている様なので興味のある方はそちらを参照されたい。

『樂書』には円体胴に直頸型の棹を持つ楽器として「秦漢琵琶」「月琴」そして「阮咸琵琶」の三種類の楽器が記されている。

巻百二十九の樂圖論・胡部八音・絲之属下には「秦漢琵琶」として、次の様に記されている。

秦漢琵琶本出於胡人弦鼗之制圓體修頸如琵琶而小柱十有二

「秦漢琵琶はもともと西域の人から出たものである。弦鼗の制をもち胴体は丸く棹は真っ直ぐで、琵琶のようだが小さいく柱は十二有る。・・・

と記されているので、恐らく所謂「秦漢子」のことを謂っていると思われるのだが。

又、巻百四十一の樂圖論・俗部八音・絲之属には「月琴」としてこの様に記されている。

月琴形圓項長上按四絃十三品柱豪(?象)琴之徽轉絃應律晋阮咸造也唐太宗更加一絃各其弦日金木水火土自開元編入雅楽用之豈得舜之遺制歟大中 (詔)待詔張隠聳者其妙絶倫蜀中亦多能者

「月琴は円形で棹は長く、その上に思うに四絃が張られ、十三の柱は琴の徽に勝(まさ)っている(?)(「豪」は「象」の誤字かもしれなー琴の徽に象って いるー)。絃を転じて様々な律に対応する。晋の阮咸が造った楽器である。太宗が(唐太宗となっているが、宋太宗の誤り)更に一絃加え、其の絃をそれぞれ金、 木、水、火、土とした。開元時より雅楽に編入され用いられた。まさに舜帝の遺制ではないか。唐、大中時、待詔の張隠聳(ちょういんしょう)なる者はこの技 が絶妙であった。蜀にはこの楽器をうまく弾く者が多い。」

これは正に唐の阮咸のことを言っている。前記『樂府雑録』にも阮咸の達人として“張隠聳”の記述があるのでおそらく其処から引用したのかも知れない。「唐の太宗が一弦加えた」と記されているのは後記する様に「宋の太宗」の誤りなのだが、とにかくこの記述に依れば、この「月琴」は一絃加えられた五弦の楽器になっている。
この五弦となった楽器については、巻百四十五の「阮咸琵琶」の条には以下の様な記述もある。

阮咸五弦本秦琵琶而頸長過之列十二柱焉唐武后時蒯郎(明)於古塚(冢)得銅琵琶晋阮咸所造元(亭)行沖(中)命工以木為之声甚清徹頗類竹林七賢圖所造舊器因以阮咸名之亦以其善弾故也太宗舊制四絃上加一絃散呂五音・・

「阮咸は五弦で、もともとは秦琵琶だが棹がそれより長く十二の柱が並んでいる。唐の武后の時、蒯郎が古い墓で銅製の琵琶を見つけた。晋の阮咸が造った楽器であった。元行沖が工人に命じて木で造らせたところとても清涼な音がした。竹林の七賢図に画かれた舊器に頗る類し、又その阮咸に名を因むのはこの楽器を好んで弾いていた故である。太宗が旧制の四絃に一絃加えた。散声は呂の五音になる。・・」

此処に、一回目の「隋・唐時代」で書いた「阮咸命名話し」が記されている。これは「月琴」の条に記したほうが適切ではないかと思うが、とにかくこの記述をそのまま受け取れば『楽府雑録』では阮咸とされていたものを月琴とし、その阮咸を五絃の阮咸琵琶としている。しかしどうもそれぞれの記述に交錯しているところが多い。ただ南宋・馬端臨の『文献通考』には殆どそのまま引用されているが。勿論北宋の時代にこの三種類の楽器が同時に存在していて実際に用いられていた、と云う訳ではないであろう。

陳暘謂う所の「秦漢琵琶」は、明・潘之恒の「絃鞉―即今之三絃 為張聘夫作」の文によれば、胡部の音楽をする者はこれを習っていたと記されている。しかし、六朝時代には所謂知識人の楽器になっていたし、隋・唐時代は中国的な音楽である清楽に用いられていたのである。

「阮咸」は唐末の李匡乂・『資暇集』に依れば、唐末には已に「月琴」と呼ばれていたのかもしれないが、同じ唐末の『楽府雑録』には「阮咸」として記され「月琴」の名は見られない。この『樂書』の「月琴」の条には【按四絃十三柱・・・(思うに四絃で十三の柱・・・)】等と記されているので陳暘の時代、実際には「月琴」なる楽器はもう無かったのかもしれない。と言うより直頸円形型のものはこの時代已に「月琴」と呼ばれていなかったのかもしれない。【もし陳暘の時代に実際に月琴と呼ばれた楽器が存在していたとすれば“按ずるに”という言葉は用いないと思うのだが】同じ北宋の『事物紀原』には「阮咸」はただ「阮」と呼ばれる様になったとも記されているが、上記した様に唐末に完成している『盧氏雜説』には已に「阮」の記述も見られる。勿論これらは皆、唐の「阮咸」の流れを汲むものである。

とにかくこのように、宋の「阮咸」は太宗によって五弦の楽器に作り替えられている。このことは南宋・章如愚の『山堂考索』巻五十に、又『宋史』にも記されているが、『宋史』巻百二十六によれば、至道元年(995)に太宗によって「五絃阮」なる物が作られ、同時に作られた「九絃琴」の曲譜と合わせ新譜三十七巻も定められている。「五絃阮」の曲としては新しく宮調・鶴唳天弄、鳳吟商調・鳳来儀弄、の二曲が制定され、旧曲を新しくしたものは、宮調—四十四曲、商調—十三曲、角調—十一曲、徴調—十曲、羽調—十曲、黄鐘調—十九曲、無射商調—七曲、瑟調—七曲、碧石調—十四曲、慢角調—十曲、金羽調—三曲、 と記されているが現在に伝わっていないのでどの様な曲なのかは全く判らない。

又、陳暘の『樂書』にはこの「阮咸琵琶」の条に当時の「五絃阮」の調弦を解明出来る手がかりとなる記述があるので、次回ではこの記述をもとにその調弦を解明し、また舊器と記されている当時の四絃の「阮咸」の調弦にも触れてみたい。

北宋の類書である『太平御覧』(李昉(りほう)・983年成書)には、琵琶の条に劉煕の『釈名』や傅玄の『琵琶賦』の記述が在るが、阮咸まで記述が及んでいない。又同じく李昉が関わった『太平広記』には前に書いた『国史異纂』や『廬氏雑説』の「阮咸命名話し」が記されているだけであるし、呉淑(ごしゅく)の『事類賦』には琵琶の条すら無い。劉孝孫の『事原』(これは若しかしたら南宋の書物かもしれないが。)の阮咸の条にはいつもの「阮咸命名話し」と『資暇集』からと思われる月琴の話しが少し載るだけである。又、陳暘の兄である陳祥道の『礼書』巻百二十四の「瑟」の条には、漢の琵琶や阮咸に若干触れている文章が在るが、【漢之琵琶箜篌晋之阮咸此皆倣琴瑟而為之歟(漢の琵琶、箜篌、晋の阮咸は皆琴や瑟に倣ってできたのか?)】と記されているだけであるし、王欽若の『冊府元龜』や、晏殊の『類要』にも阮咸の記述は無い。高承の『事物紀原』には「阮」の条は在るにはあるが、これも又『通典』や『資暇集』からの引用だけである。ただ咸豊肥なる人物が四絃十三柱のこの楽器を造ったとあるが、咸豊肥なる人物はいかなる書物からの引用なのか不明である。

この『事物紀原』には「阮咸」については目新しい記述は無いが、「嵆琴(けいきん)」の条に少し興味深い記述が在るので記しておきたい。

杜摯賦序日秦末人苦長城之役絃鼗而鼓之記以為琵琶之始按鼗如鼓而小有柄長尺餘然則繋絃於鼓首而属之於柄末與琵琶極不彷彿其状則今嵇琴也是嵇琴為絃鼗遺象明矣・・・・今人又號嵇琴為秦漢子・・・

「杜摯の賦の序に曰く、秦末、人びとは長城の労役に苦しみ絃鼗を弾いていた。これを琵琶の始めであると記している。思うに鼗は鼓のようであるが小さく、柄が付いて長さが一尺余りあるる。鼓の端から絃を繋いで柄の末に取り付けると云うのであれば、それは極めて琵琶と似通っていないであろう。其の形状は今の嵇琴である。こ の嵇琴が絃鼗の形状を今に残しているのは明らかである。・・今の人はまた嵇琴を秦漢子と号している」

前記『樂書』巻百二十八の「奚琴」の条にも同じ様な事が記されているが、「嵇琴」は「奚琴」とも記され、唐・崔令欽の『教坊記』にも「嵇琴子」として現れている。又嵇康が造ったとも、奚族の楽器ともいわれ、最初は竹の棒で擦って演奏していたいわば胡弓系の先祖の様な楽器。(『事物紀原』には竹林の七賢人の一人である嵇康が作ったので嵇琴と名が付いたと言うのは、言い伝えとしても一理あると記されているし、又南宋末の陳元靚・『事林廣記』には正に嵇康が作ったと記されているが、どうも腑に落ちない話しではある・・。)

何れにしても北宋では胡弓系のこの「嵇琴」を「秦漢子」とも呼んでいたのかも知れない。

宋・江葉得の『崑竹論』は律呂の書物であったし(これは南宋の書物かもしれないが)、阮逸(天聖年間1023—1031、進士)の『皇祐新樂圖記』にも、又北宋の音楽のことで良く参考にされる沈恬(しんかつ1031—1095)の『夢溪筆談・補筆談』にも「阮咸」の記述は見当たらないが、この阮咸を北宋ではどんな人がどのように演奏していたのだろうか。

孟元老が著した『東京夢華録』には北宋の都、汴京での民衆の暮らしが生き生きと描かれ音楽に関する記述も多くあるが“、「阮咸」に関しての記述は残念ながら見当たらない。文瑩の『玉壺清話』や邵伯温の『邵氏聞見録』にも、又神宗、徽宗、欽宗の三代の逸話が記された『大宋宣和遺事』にも楽器の記述は無い。陳師道(1053—1101)の『後山居士詩話』や葉夢得(1077—1148)の『石林避暑録』には琵琶の絃の話しはあるが、「阮咸」の記述は無い。(この絃の話しは「糸の話し(三)」の中で取り上げたい)

その他幾らかの書物に目を通してみても、北宋代での「阮(阮咸)」の演奏等の様子を記述してある書物はなかなか見つけられないが、南宋・張邦基の『墨荘漫録(ぼくそうまんろく)』に北宋末での“阮”の演奏に触れた一節があるので取り上げてみたい。

『墨荘漫録』の序によれば、建炎元年(1127)、張邦基は楊州に閉居し、蔵書が好きでその住居を墨荘と名付けたとあるが、李剣国氏の考証に依るとこの書物は紹興18年(1148年)以後に作られたと推定されるらしい。(王曉平氏—『願文にひそむ俗文学』p18)
その“巻之九”に北宋の都“汴京”での「阮」の演奏の様子に触れた一節がある。

『墨荘漫録』巻之九より

琴阮皆樂之雅者也琴則人多能之而藝精者亦衆至阮則人罕有造其妙者中都盛時有醴泉観道士王慶之頗有此樂同時有安敏修者以此藝供奉上前徽廟顧遇厚於倫輩二人者其能相抗予在京師皆嘗聴之慶之則間雅多則古曲優逸不迫敏修則變移宮徴抑怨取興雜以新聲然皆妙手絶藝也後慶之不知存亡敏修被虜北去未幾[]而南帰今習阮者未有能及此二人也 

【大意】

「琴と阮はどちらも雅(みやび)な音楽である。琴は演奏する人も多く、又上手な人も多いが阮はめったに学ぶ者がいない。其の妙手と言えば都が盛んだった頃に醴泉観の道士、王慶之が頗るこの楽器に優れていた。同時に安敏修なるものがこの藝を以て美しい廟の前で皇帝に捧げかえって仲間から厚遇を受けていた (?)が、この二人の能力ははともに拮抗していた。私が都に居たとき皆この演奏を聴いていた。慶之は則ち閑雅で古曲が多く優れ、ゆったりと優雅である。敏修は五度転調など変化があるが、ただ新曲が少し乱雑かもしれない(?)。しかしどちらも素晴しいものであった。後になり慶之は消息が判らなくなり、敏修は侵攻してきた“金”に捕えられ、北に連れ去られ未だ消息が分からない。南宋になった今、阮を習う者はいるがこの二人に及ぶ者はいない。」

この記述を見ると北宋では「阮」なる楽器は琴と同様に雅びな楽器として捉えられていた様だが、なかなか難しい楽器であったようだ。これらの「阮」は太宗に依って作られた「五絃阮」ではなく民間に伝わっていった四弦のものだと思うのだが、当時もまたかなり貴重な楽器であったのであろう。
そしてこの王慶之と安敏修の二人の達人は、中国の激動の歴史の中に消えていった。

追補ー前記『大宋宣和遺事』には、政和二年(1112年)に徽宗依って賜れた宮中の宴で、美しい宮女に琴や阮を演奏させたことが記されている。この宴では殿上と階段で箏、竽、琵琶、方響、笙、蕭が合奏されたことが記されているが、琴と阮はこれらの楽器とは別に記されているので、やはり阮は、琴と同様に雅びな楽器として扱われていたようである。この阮は太宗に依って作られた“五絃阮”ではなく四絃のものであろう。また“五絃阮”については『玉壺清話』の釈文瑩が著した『續湘山野録』には次の様な記述もある。

太宗作九絃琴七絃阮・・・・・文瑩京師遍尋琴阮待詔皆云七絃阮九絃琴蔵秘府不得見

「太宗は九絃琴と七絃阮を作られた・・・・文瑩は都で隈無く琴阮を尋ねたが、待詔達は皆、七絃阮と九絃琴は蔵に秘蔵されていて見ることが出来ないと云った。」

ここに記された“七絃阮”は明らかに“五絃阮”の誤りである。文瑩の生没は未詳だが、凡そ仁宗、英宗、神宗の間に(1022~1084)在世、活動していた人で、この『續湘山野録(湘山續録)』は『玉壺清話』が書かれた二年前すなわち1076年に撰述されている。この記述を見ると、太宗から凡そ80年程経たこの時代でも“五絃阮”は、尚も蔵に秘蔵されているような貴重な楽器であり、待詔といえども見ることすら出来なかったようである。このような“五絃阮”が民間に伝わるわけが無いが、これから少し時代が下った、陳暘の『樂書』には前記したように当時の太常楽工の俗譜から採った“五絃阮”の柱の律名が記されているので、この“五絃阮”なる楽器は貴重な楽器ではあったけれども、実際にも使われていたことが判る。

次回は、陳暘『樂書』「阮咸琵琶」の条に記された記述を手掛かりとして、五弦となったこの「五絃阮」の調弦を解明してみたい。

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