秦琴の歴史

隋・唐時代

秦琵琶もしくは秦漢子

このように六朝時代大いに流行したこの琵琶は隋・唐時代になると“秦琵琶”とも総称され、隋・唐当時のものは「秦漢子(しんかんし)」と呼ばれるようになり、中国の独自色が強い清楽(清商楽)と言われる音楽に用いられていた。

『隋書』巻十五 志十 音楽下 には次の様な記述がある。

清楽其始即清商三調是也 並漢来舊曲 楽器形制并歌章 古辭與魏三祖所作者 皆被於史籍・・・・其楽器有鐘 磬 琴 瑟 撃琴琵琶箜篌 筑 箏 節鼓 笙 笛 蕭 篪 塤 等十五種為一部工二十五人

「清楽の始めは即ち清商三調であり、それらは漢以来の古い曲である。楽器の形と制度、そして又歌章は古辭と魏の三祖が作ったもので、それらは皆歴史上の事柄に基づいている。・・・その楽器は鐘 磬 琴 瑟 撃琴 琵琶 箜篌 筑 箏 節鼓 笙 笛 蕭 篪 塤 等十五種類で楽工は二十五人で一つの部署となっている。」

この琵琶について、前記『通典』(巻百四十四)、そして『舊唐書』(志巻九音楽二)には次のように記されている。

今清楽奏琵琶(※1)俗謂之秦漢子円体修頸而小疑是弦鼗(※2)之遺制傅玄云体円柄直柱有十二其他皆充上鋭下・・

「いま清樂は琵琶を用いる。俗に秦漢子と謂れ、丸い胴体に棹は真っ直ぐ付いており少し小さい。疑ごうらくはこれは絃鼗の遺制か。傅玄も、円体胴に真っ直ぐな棹、そして十二の柱が付いていると言っている。その他のものは皆洋梨型をしている。(?)」

※1―『旧唐書』、『文献通考』では“奏琵琶(そうびわ)”になっているが、岸辺成雄氏は“秦琵琶(しんびわ)”の誤りであろうとされている。清・『淵鑑類函』は“秦琵琶(しんびわ)”となっている。
※2―この弦鼗(げんとう)の“弦”は書物によって“絃”になったりするが、以後は“絃”に統一して記述する。

また、『唐書』巻22によれば、次のようにも記されている。

初隋有法曲其音清而近雅其器有鐃 鈸 鍾 磬 幢簫 琵琶 琵琶圓體修頸而小号日秦漢子蓋弦鼗之遺製 出於胡中伝為秦漢所作・・

「隋のはじめには法曲があった。その音樂は清らかで雅楽に近い。楽器は 鐃、鈸、鍾、磬、幢簫 、琵琶を用いる。琵琶は胴体が円形で棹は真っ直ぐ付いており少し小さく秦漢子と呼ばれていた。思うに絃鼗の遺制か。西域から出て伝わり秦漢時代に作られた。」


『新唐書』は北宋・欧陽脩(1007~1072)等の奉勅撰であるが、これをそのまま信ずれば隋の時代から「秦漢子」なる楽器があり、『通典』に依ればおおよそ大暦(766~ 779)あたりでも使われていたことになる。この「秦漢子」なる楽器は六朝時代に流行った琵琶と同系統であることは明らかであると思うが、もう一つ、ここに「絃鼗(げんとう)」という記述があり、「秦漢子」はこの「絃鼗」の遺制であると記されている。これはすなわち漢代、に興ったとされている(このことは定かではないと思われるが)前記、漢式型の琵琶のそのまた源流に「絃鼗」なるものがあると言うことである。

ここで少し「絃鼗」について話をしたい。この「絃鼗」に関しての記述は、魏の杜摯(ドゥジまたはトシ)の言として様々な書物に現れている。

例えば『宋書』(梁の沈約・488年完成・樂志は502年以降)巻19の琵琶についての一節には、傅玄の「琵琶賦」曰く、として、

 ・・杜摯云長城之役絃鼗而鼓之並未詳執實其器不列四廂

「杜摯が謂うには“長城の労役の慰めに人々は絃鼗を弾いていた”。何れも皆事実未詳である。この琵琶は四廂楽歌には用いられていない。」 と記され、

また、南朝、陳(557−589)の釈智匠(しゃくちしょう)の『古今楽録(ここんがくろく)』には次のようにも記されている。

琵琶出於絃鼗杜摯以為興之秦末蓋苦長城役百姓絃鼗而鼓(『古今楽録』は現存しておらず『初学記』巻16からのもの)

「琵琶は絃鼗から発展した。杜摯は秦末に興ったとしている。思うに長城の労役に苦しんだ農民達が絃鼗を弾いていたのである。」

そして前記「通典」(明・李元陽校本)にも同じく次のように記されている。【これは上記『宋書』からの引用であろうが】

・・杜摯曰秦苦長城之役百姓絃鼗而鼓之並未詳執實其器不列四廂・・(苦が若、役が設になっているが誤りであろう)

これらは皆、【秦末、長城の労役に苦しんだ人々が“鼗”に弦を張って、演奏して慰めにした】という主旨のものである。

“鼗”は周の時代“播鼗”と言われた、いわゆる振りつづみ(要はデンデン太鼓の少し大きなもの)。太鼓の部分を胴体にみたて、柄を棹にして弦を張った初期的な絃楽器が秦の時代に現われ、『古今楽録』ではそれが当時の琵琶(漢式)の源流であると言っている。

また、唐・徐堅(じょけん)(659ー729)の『初学記(しょがっき)』巻16や宋・李昉(りほう)(925ー996)の『文苑英華(ぶんえんえいが)』巻71に収められている隋・虞世南(558ー638)の「琵琶賦」にも次のように記されている。

・・・尋斯楽之所始乃絃鼗之遺事強秦創其濫觸

「・・この琵琶の始まるところを尋ねれば乃ち絃鼗の遺事である。それは秦の時代から始まっている。」

ここでもまた、琵琶(漢式)は「絃鼗」の遺事で秦から始まったとしている。(強秦創其濫觸【濫觴(らんしょう)物事のおこり】

そしてまた、唐の白居易も『白氏六帖事類集(はくしりくじょうじるいしゅう)』(約830年頃成書)巻18の琵琶の条で『古今楽録』を引用して、琵琶は絃鼗から出ているとしている。

このように六朝時代から唐代にかけて様々な書物で琵琶(漢式)は「絃鼗」から発展してきたと言っているが、その「絃鼗」はいかなるものなのかは、おおよそのイメージはできるが、あまりはっきりしない。

「絃鼗」の形体についての多少の具体的な記述は、宋・高承の『事物紀原』「嵇琴」の条、に記されているが、明代には、潘之恒(はんしこう)の『亘史』(天啓版)の雜篇巻五「文部」に次の様な記述も現れて来る

周楽器設播鼗職業所及制用絲結為縄如貫珠垂雙耳揺之還撃其面以成音協於鼉鼓之節自周失職武入於漢至秦末改此器引絲而長之以為絃加一以象川義棅出其上如繭之吐絲去鼗革代以蛇腹象仰盂承槩名日絃鼗

大意

「周の楽器では鼗を播する(音を放つ)職を設けていた。業の制に及ぶ所は、糸を結んで縄状にし、両耳から貫珠が垂れ下 がっている様である。それを揺らし、鼓面を撃ち、音を出して鼉鼓(だこ)と一緒に音楽の節目に合わせて演奏された。周末に礼楽が乱れ職が失われ、武が漢中 に行ってしまってから、至りて秦末にこの器が変化した。糸引いて長くし、一絃加え絃と為し、川の意味を象どった。其の上に柄が出ているのは、繭から糸が引 き出されている様である。胴は革の代わりに蛇の腹の皮を用い、その形は丸い鉢を仰いで細長い棒を通している様である。これを絃鼗という。

追記ー「自周失職武入於漢」は『論語』巻九微子十八に記され、陳暘『樂書』巻八十五、九十に記されてある様に【周末に禮楽が壊れ職が失われ、播鼗の職の武が漢中の地に行ってしまった。】ということです。

絃鼗

このようなものである。潘之恒は明代の「三絃」と「絃鼗」とを関連づけて考えていたようである。ちなみにこの「絃鼗」は胡弓系の楽器の源流とされることもあるし(上記『事物紀原』宋:高承“嵇琴”の条)、また清初の学者でもある毛希齢(もうきれい)は、その著書『西河詞話(せいかしわ)』の中で“三絃”(現在の“三絃”と同じもの)の源流であるとまで言っている。しかし、この説には何の根拠もないであろう。

 「絃鼗」と「三弦」また潘之恒と毛希齢(もうきれい)のことは、拙稿【潘之恒における「絃鞉-三絃源流説」】を参照して下さい。http://akifukakusa.com/note/note.html

とにかく、このような「絃鼗」から発展して漢式琵琶たる「秦漢子」になったというわけであるが、しかし、このことも確たる証拠は今のところのないようである。中国の学者の中では「絃鼗」源流説を取る人も多いが、そもそも「絃鼗」なるものが秦の時代に本当に存在していたかどうかも定かではないように思われるのである。秦の時代から千年程経た唐・段安節の『楽府雑録』の鼓吹部の条に「絃鼗」なる記述が確かにあるが、千年の時を隔てたこの「絃鼗」をして秦代の「絃鼗」の存在証明をするのは難しいし、同じ楽器を意味しているとも思えない。

現代の中国、日本の学者の多くは、「絃鼗」を鼗鼓からの変形と考えるのは同じで、前記宋:高承の『事物紀原』にもその様なことが記されている。只「絃鼗」を三本の弦の楽器としているものが多いが、何故三弦としているのか良く判らない所がある。上記、潘之恒の『亘史』から、もしくは毛希齢謂う所の清代の「三絃」の源流を「絃鼗」としている所から「絃鼗」三弦説が出ているのかも知れないが、「絃鼗」が鼗鼓から出来たものだとすれば当然二弦であるのが自然であろう。楽器の弦数が増えるということはかなり高度な音楽的要求がなければならない。農民が弾いていたこの「絃鼗」を三弦としているのがどうも解せない。「絃鼗」の記述が最初に現れるのが上記『宋書』(梁の沈約・488年完成)に記され三国・魏の杜摯の文章であるが、この『宋書』編纂の当時ですら杜摯のこの文章の全文が残っていたかどうかも定かではないし、勿論三弦とも記されていない。

秦の時代から400年以上の時が経ている魏の杜摯がいかなる書物を参考にして「絃鼗」と言い出したのか判りようが無いし、杜摯の時代にこの様な楽器を「絃鼗」と言っていたのか、それとも秦代に「絃鼗」と呼ばれていたことを書物を通して杜摯が知ったのか、それも判らないので杜摯の造語とも考えられるが、多くの古の官吏学者達がただこの一文を引用して様々な論述をしている様に思える。明の潘之恒などは三弦でしかも蛇の腹の皮とまでいっている。しかし管見の限りでは、秦・漢代の書物の中に「絃鼗」のことが明記されているものは一書も見当たらない。

秦・漢の時代前後に中央アジアを遊牧していた月氏の民によってもたらされた楽器が、当時中国の鼗鼓を逆さまにして絃を張った様な形だったので、いつのまにか「絃鼗」【鼗に絃する、というような】と呼ぶ様になったのかもしれないが、この存在の不確かな「絃鼗」を漢式型琵琶の源流に於くのは少し無理があろう。ただ、現在のところ「烏孫公主」のような伝説的な話はともかく、漢式琵琶はその源流を中国国内に求めるのが通説になっている。

また前記したシルクロード西域のいくつかの事例の中には、当時中国文化の影響をあまり受けていない遺跡もあり、漢式琵琶の源流をやはりペルシャあたりに求めることができるかもしれないと云う説もあるが、これもまた結論が出ていない。

この漢式琵琶が“絃鼗発展説”のように漢人の手によって創られたものなのか、あるいは、やはり西域から伝わった楽器にその源流を持つものなのかは、今のところ謎のままなのである。

「絃鼗」に関して最後に、中国に於いて最も早い時期の 「絃鼗」の図像として四川音楽学院出版の『音楽探索』に高文氏が提出された漢代の画像磚を取り上げてみたい。ただこの図の歴史的考証は為されてないので資料的価値はあまり認められていないようである。

【四川音楽学院出版『音楽探索』1998年第2期(16〜17頁)作者 高文「我国最早的絃鼗図像」より引用しました。】

右の一人が竽を吹き、左の一人が瑟を弾き、真ん中の人が弾いているのが「絃鼗」ということらしい。軫が三つに見えるのでここから「絃鼗」三絃説が出たのかもしれないが、漢代のものと云うことで中国中央音楽学院の鄭祖襄氏は秦代の「絃鼗」から漢式型琵琶になる過渡期の楽器の可能性もあるとされているが、この図の歴史的考証も為されてないこともあり、推量の領域を出ない。

このように漢代に現われた、もしくは伝わったであろう【漢代のものは洋梨型かもしれないが】とされている円形の胴体に“柱”の付いた直頸の棹を持つこの種の絃楽器は、三絃や四絃、もしくはその大きさや形を少しづつ変えながらも、西域一帯や中国本土に広く伝わり、【2006年に泉州の安南市豊州鎭皇冠山で28の墓が発掘され、「太元三年(378年)」と刻まれた煉瓦とともに三絃や四絃の漢式琵琶の文様が彫刻されていた煉瓦も発見されているので、確かに東晋時代すでに南方まで伝わっていた。王蓮茂氏のレポート<泉州の古典音楽と、伝統劇及びその海外への普及>、もしくは『収蔵快報』2008年第三期、陳建中、金光仁<古楽器“阮咸”与音楽珍品“南音”>を参照されたし。】中国本土において伝承されてきたものは琵琶と呼ばれていた。そして、隋・唐代になると「秦漢子」とも号され、清楽と言われる音楽の演奏に用いられてきた。

 

        

 

           

 

2006年に泉州の安南市豊州鎭皇冠山の東晋代古墓で発掘された漢式琵琶の文様の煉瓦) 
『収蔵快報』2008年第三期より

 

しかし、例えば龍門の石窟寺に彫られたさまざまな楽器の数を見てみると、唐代に下るにしたがって、いわゆる曲頸(きょっけい)と言われた「四絃曲頸琵琶」の事例が増え、この漢式系の琵琶の事例が減ってきているように唐代の胡楽全盛の中で琵琶と言えば「四絃曲頸琵琶」を指すようになり、中国の独自色が強い清楽(清商楽)の演奏に用いられてきた「秦漢子」なるこの琵琶は、その形体をひとまわり大きく改良され「阮咸(げんかん)」と命名された新楽器に変化してゆく。

しかしこの「阮咸」も又、実は誰に依って、どのようにして作られ、又いかにして阮咸と命名されたか、そのいきさつ等については、実際の所どれも確実には判っていないのである。

阮咸の名の由来は、周知のように“竹林の七賢”の一人、阮咸から取ったものだが、そのいきさつについては『国史異纂(こくしいさん)』、『隋唐嘉話(ずいとうかわ)』『通典(つてん)』、『資暇集(しかしゅう)』、新、舊『唐書(とうじょ)』等に凡そ同じようなことが記されている。

『通典』(上海図書集成局遵武英殿聚珍版校印・光緒27年)には次のように記されている。

阮咸亦秦琵琶也而項長過於今制列十有三柱武太后時蜀人蒯郎於古墓中得之晋竹林七賢図阮咸所弾与此類同因謂之阮咸咸世実以善琵琶知音律称【蒯郎初得銅者時莫有識之太常少卿元行沖日此阮咸所造乃令匠人改以木為之聲甚清雅】

大意

「阮咸はまた秦琵琶でもある。棹は今の制度より長く、十三の柱(フレット)が並んでいる。武太后時、蜀の人、蒯郎(かいろう)が古墓でこれを見つけ、晋の竹林七賢図の阮咸が弾く楽器と同じ類だったのでこれを「阮咸」と謂った。阮咸は当時実際に琵琶を好み、音楽を知る人として讃えられていた。【蒯郎が初め銅で出来た物を見つけた。当時、之を知る者がいなかったが、太常少卿であった元行沖がこれは阮咸が作ったのであるといい、職人に命じて 木で作り直させたところとても清雅な音がした】」

又、北宋・李昉の『太平広記』(978年成書)の巻二百三、樂一、には『国史異纂』からとして次の一条が収められている。

元行沖賓客為太常少卿時 有人於古墓中得銅物似琵琶而身生圓 莫有識者 元視之日 此阮咸所造樂也 乃令匠人改以木 為聲清雅 今呼為阮咸者是也

「元行沖賓客が太常少卿の時、古墓の中から、銅製で琵琶に似ているが胴が円形のものを得た人がいた。これが何であるか判る者がいなかったが、 元行沖が之を見て、これは阮咸が造った楽器であると言い、匠に命じて木でこれを作り直させた所清雅な音がした。今阮咸と呼んでいる物は是である。」

というようなことである。年代的に見ると『通典』の後半の【】内の記述はどうもこの『国史異纂』からの引用と思われるが、この元行沖の”阮咸命名話し”の方が後に広まり、「唐書」巻200列伝第125の「元澹(げんたん)字・行沖伝」にも取り上げられてしまっている。

そしてもう一つ唐・盧言の『盧氏雜説』のことにも触れておきたい。この『盧氏雜説』はあまり取り上げられていないが、そこに記されている「阮咸命名話し」は上記の“元行沖”の話しとは少し違っている。

この著者である盧言の詳しい生没は判らないが、文宗の開成二年(837年)には已に員外郎の職に就いており、大中二年(848年)には大理卿の職を已に任ぜられているので、盧言の仕官年代はおよそ穆宗から宣宗の時期位(821〜859位)になるそうである。この盧言についての詳しいことは周勛初氏の『盧言考』を参照されたい。【上海の学術月刊社「学術月刊」1987年四月号51~53頁】
それによればこの『盧氏雜説』は現在では全文が伝わっておらず、前記北宋・李昉の『太平広記』に最も多く、六十六条が収録されているが、『紺珠集』『類説』『説郛』には一巻と記されている。他に『玉泉子』には十一条程の文章に、『盧氏雜説』からの引用と思われる文章が混ざっている。

しかしこの「阮咸」の話しは『盧氏雜説一巻』には取り上げらておらず、また『玉泉子』にも見当たらないので、『太平広記』に収録されている六十六条中にしか見い出すことが出来ないが、そこには前記『国史異纂』から引用された“元行沖の話し”の次に『盧氏雜説』からとして以下の様に記されている。

晋書稱阮咸善弾琵琶 後有發咸墓者 得琵琶 以瓦為之 時人不識 以為於咸墓中所得 因名阮咸 近有能者不少 以琴合調 多同之

「晋書には阮咸は琵琶を善くしたと讃えてある。後になり咸の墓を暴く者があり、瓦で作られた琵琶を得た。その時の人々は之が何か判らなかったが、阮咸の墓の中から得たことに因んで阮咸と名付けられたのである。今では之を上手く弾く者は少なくない。琴を以て調を合わせ、おおくの場合他の楽器と一 緒に演奏される。」

この様に記されている。

年代的には『国史異纂』の記述が一番古いのだが、【この『国史異纂』は後記するように、唐の天宝年間に在世した劉餗の著した『伝記』なのである。】盧言がもし『通典』なり『伝記』なりの書物を知っていたとしたら、銅器なる物を見つけた蒯郎の話しも、元行沖の話しもまったく信用していなかったということになるのだが。

阮咸という楽器が現れてから、これらの書物が著された時代までは、たかだか百年位しか経っていないのに、何故このように記述が異なっているのか良く判らないところがある。

とにかく阮咸が現れた当時は、前記したように秦琵琶、秦漢子なる漢式型の琵琶があったわけで、『国史異纂』等言うように誰もまったくこの種の楽器を知らなかったというのもあまり信用出来ない。当時秦琵琶から改良された新楽器が、このような棹の楽器を愛好していた竹林の七賢人の一人、阮咸にちなんで「阮咸」と命名されたわけだが、その命名の由来をもっともらしくするために、後になって様々な人によってこの様な話しが付会されと考えるのが一番合理的であろうか。

しかしどのみち阮咸という楽器が誰に依って作られ、どのようにして世の中に現れてきたのかは、書物に依っての言い伝え以外には判らないのである。

又、この阮咸の命名に関して、唐末・李済翁(りさいおう)【または李匡乂(りきょうがい】の『資暇集(しかしゅう)』巻下・阮咸の条には少し興味深いことが記されている。

つまり、彼の祖父の兄弟であった司徒汧公(けんこう)―李勉:李崖州(717〜788)― に従って大暦中に滑州に赴任している時、李勉は客と琴や音楽の話しになると、例の元行沖の「阮咸命名話し」をよくしていたそうだ。そして又李済翁は、昔の賢人でも人の名でもって楽器を呼ぶべきではないと言って、その形が月に似て、その音が琴に似ているため、「月琴(げっきん)」と呼ぶのが宣しいとも云っている。

後世、さまざまな書物にこの楽器を「月琴」と呼んでいるのは、この李済翁から始まっているのかもしれない。また、李済翁(李匡乂・りきょうがい)在世の中唐末当時はこの「阮咸」は手弾で演奏されていたようである。【今阮氏琵琶正以手指反不得古琵琶之名都失本義也ー『資暇集』巻下阮咸の条より】

この命名話しの主人公にされてしまった太常少卿である元行沖は、その出身が異民族である拓跋鮮卑族(たくばつせんぴぞく)である。かつて彼らの民族が支配していた北魏にこの楽器が流行っていたということが、もしかしたら関係があるのかもしれないが。

しかし、例えば日本『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』源順(みなもとのしたごう)承平間 (931~937年)、    『新唐書(しんとうじょ)』宋・欧陽脩(おうようしゅう)(1007−1072)、  『事物紀原(じぶつきげん)』宋・高承(こうしょう)、 『楽書(がくしょ)』宋・陳暘(ちんよう)、『事原(じげん)』宋・劉孝孫(りゅうこうそん)、 『文献通考(ぶんけんつうこう)』南宋・馬端臨(ばたんりん)等々、また後世のさまざまな書物に晋の阮咸がこの楽器を造ったと記されているが、もちろん晋の当時は琵琶と呼ばれていたこの絃楽器を阮咸本人が作ったのでは当然ないわけである。

元行沖が太常少卿になったのが711年くらいで、玄宗の世が712~756年、そして日本の聖武天皇の在位が724~749年。この元行沖の話と聖武天皇の遺品である正倉院の宝物、阮咸二面とを考え合わせると、行沖伝は作り話としても、「阮咸」という楽器が現われたのは、おおよそ唐の則天武后(684~704年)の後半から開元(713~741年)に入る少し前あたりと考えても良いのかもしれない。

日本の正倉院に所蔵されている「阮咸」はまさに当時中国でも登場したての新進の楽器であった。今後もし、正倉院展に出展されることがあれば、是非見学される機会を持たれたい。

また、大中年間(847~859年)の初年あたりにこの阮咸の名手として張隠聳(ちょういんしょう)なる人物が、唐・段安節(だんあんせつ)の『楽府雑録』等に記されている。

このように、もはやかなり完成度の高い楽器となった阮咸は、この後、阮、月琴、阮琴、竜阮等と呼ばれ、宋、元、明と受け継がれていく。
(正倉院所蔵の桑木阮咸の袋に阮琴と書かれていて、その書体は奈良時代のものらしいので、奈良時代の日本では阮琴と呼ばれていたことがあったのかもしれない。)

追補―「元行沖の阮咸命名,創造話し」が記されている『国史異纂』と『隋唐嘉話』のこと。

唐の天宝年間に在世した劉餗の著した『伝記』三巻(旧唐書巻102・劉子玄伝)は北宋代には『国史異纂』とも呼ばれていた。この『国史異纂』も『伝記』も書物としては現在伝わっておらず、そこに記された“元行沖の阮咸命名話し”は北宋・李昉の『太平広記』(978年成書)に、『国史異纂』から引用された五十項目の一つとして“巻二百三、樂一”に収録されている。そして唐代に『伝記』と謂れ、北宋代には『国史異纂』とも呼ばれたこの書物から隋・唐代の逸話をまとめたものが『宋史』芸文志小説家類に『隋唐佳話』として記され、これが後に『隋唐嘉話』と呼ばれるようになる。

このようなので『通典』が『国史異纂』を参考にしたと言う言い方は正確ではなく、もし本当に『国史異纂』に書かれた「阮咸命名話し」を引用していたとしてもそれは前記したように『旧唐書』巻一百二劉子玄伝の所に記されている劉餗の『伝記』と言う書物からであろう。また上記『資暇集(しかしゅう)』李匡乂の叔翁の汧公・李勉は『伝記』が著された当時は30才中頃であったので、彼も又この書物を読んで「阮咸命名話し」を知ったのかもしれない。

こう考えると「元行沖の阮咸命名話し」が最初に現れた書物はこの劉餗の『伝記』とも思えてくる。ただ『伝記』を著した劉餗と前記『資暇集』の中の李勉(717〜788)は身分の違いこそあれ在世年代が近いので、この二人から同じ話しが出ていると云うことは、もう一つ前にこの様なことが書かれた書物が存在していたのかもしれない。

阮咸と呼ばれる楽器が出現してから凡そ50~60年後の話しである。ただこの「元行沖の阮咸命名話し」は北宋に『国史異纂』とされたときに付け加えられている可能性もある。そうなると『通典』の杜佑も、李勉も『伝記』以外からこの話しを知ったことになるのだが。『伝記』と云う書物の完全な姿は今となっては判らないので確認することはできないが。

またこれらの書物の事情は内山知也氏の論文「盛唐小説論の(四)逸話集」について”を参照して下さい。

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