秦琴の歴史

六朝時代

傅玄の『琵琶賦』を信ずれば、直頸の柄に柱がついた円体胴の琵琶(批把)が漢代に現れた訳であるが前記した様に書物の記述にも疑問が残るし、実際の事例も今の所無いようである。

この漢式琵琶の事例が多く現れてくるのは、少し時代が下って3~4世紀の魏・晋代になってからである。亀茲(きじ)の遺趾のキジル石窟の壁画や、またスタインによって新疆省(しんきょうしょう)の天山南路ニャー遺跡から発見されたリュートの破片、(円体胴ではないかもしれないが)嘉峪関酒泉魏晋墓壁画(かよくかんしゅせんぎしんぼへきが)等、西域各地にこの種の楽器の痕跡や壁画の事例が多く現れてくる。

その古墓(3~5世紀ごろ)の壁画に、四絃もしくは三絃で、円形または少し梨形になっている胴体を持つ、直頸の弦楽器の図が多く見られる嘉峪関・酒泉あたりは、秦、漢時代から月支や烏孫が遊牧していた地域でもあった。前記傅玄「琵琶賦」の烏孫公主の話を考え合わせると、何か不思議な感じがしてくる。もしかしたらこの地方から伝わったものをあたかも漢人がその以前に伝えたかのごとく、烏孫公主の琵琶の話を付会したのかもしれない。

【 嘉峪関新城古墳群 】

六号墓 3世紀中〜4世紀前 一号墓 3世紀中 四号墓 3世紀中〜4世紀前
七号墓 3世紀中〜4世紀前 三号墓 3世紀中〜4世紀前

【 酒泉西溝古墳群 】

七号墓 七号墓

【 酒泉・丁家閘西涼墓 5世紀前 】

全体 絃楽器の部分を大きくしたもの

『嘉峪関酒泉魏晋十六国墓壁画』 ・『追尋逝去的音楽踪迹』より

 

【克孜爾石窟壁画】

         

118窟 三世紀                       77窟 四世紀                       77窟 四世紀

         

77窟 四世紀                         38窟 四世紀                         38窟 四世紀                 

    

38窟 四世紀                          171窟 四世紀

『中国壁画全集8』『中国音楽文物大系 新疆巻』より

 

これらの壁画を現物の楽器を凡そそのまま写したものと信ずれば 、「嘉峪関新城古墳群」の3号墓と「酒泉・丁家閘西涼墓」の洋梨形胴体の琵琶は時代の違いこそあれ同種類のものと思われるが、3号墓のものは三絃と思われるのでこの楽器は三絃と四絃の二種類あったようである。漢代の画像石に見える洋梨型の楽器と同種類のものであろうか。

円体胴のものは明らかに三絃のものと四絃のものがある。「酒泉西溝古墳群」七号墓のものは両者とも三絃であるが糸巻きである転手の付き方が違うのが面白い。描き間違いなのかそれともこのようになっているのかは判らない。当然描かれている柱(フレット)の数を数えるのは無意味であろう。また、嘉峪関や酒泉の図では判らないが克孜爾38窟壁画のものはすべて小さな撥を持っていて、覆手の形も良く判る。克孜爾の118窟と77窟のものは糸蔵の形や腹板の響孔の形も似ていて同じ種類のように思われるが、ともに柱(フレット)が描かれていないので、他の琵琶とは少し違う種類のものかもしれない。とくに77窟の三種類は響孔や覆手の形に共通点があり興味深い。また小さい撥を持っている画もある。克孜爾38窟のものは嘉峪関や酒泉より小振りのように見えるが絵画的にこの様になっているだけであろうか。隋・唐の少し小振りな「秦漢子」と似たところがある。

そして少し興味深いのは腹板の響孔の形である。克孜爾の77窟の渦巻き状のものは別としても、響孔の形が良く判る嘉峪関・酒泉のものは円体胴のものも洋梨形胴のものも、新月を思わせる三日月形であり、これが少し時代が下って中国に伝わったものを見ると蓮の文様と思われるものに変化して漢化したことをうかがわせる。

  

泉州の安南市豊州鎭皇冠山で、太元三年(378年) と刻まれた煉瓦と共に発掘された琵琶の画と南朝の南京西善橋古墓に描かれた竹林七賢の一人阮咸の磚画。(隋・唐時代参照)

書物では例えば傅玄はその「歌詩」の中で琴や瑟よりこの琵琶を好むと言い、晋・裴啓(はいけい)の『語林』に記された琵琶も、晋・嵆康(けいこう)の『声無哀楽』に出てくる琵琶も、晋・孫該(そんがい)の「琵琶賦」も、そしてまた六朝宋・劉義慶の『幽明録(ゆうめいろく)』『世説新語(せせつしんご)」』に記された琵琶も、前蜀・杜光庭(とこうてい)『録異伝(ろくいでん)』に記された琵琶も、皆この漢式型の琵琶であり、周知のように阮咸もこの楽器を好んで弾じていた。

そしてこの晋代の琵琶の形体に関して前記漢代の琵琶に少し付け加えることができる記述が、晋・成公綏(せいこうすい)(231ー273)の「琵琶賦」の中にある。

盤図合霊太極形也・・分柱列位歳数成也・・

これは円体形の胴に“柱”が歳数(12個であろうか)、あると言うもので前記傅玄と同じだが、下記のような記述もある。

・・・物有容制惟此琵琶興自末世爾乃託巧班輸如意横施因形造美洪殺得宜柄如翠虬之仰首盤似霊亀之觜・・・・

【物には形と制がある(その容姿の訳がある)。惟うにこの琵琶は末世(道がすたれた時代)に創られたものではないだろうか。すなわち如意※をたくみに取り入れ託した。そしてそれを横にして形を美しくすれば(?)、棹は翠虬※が首をもたげたようだ。そして円体の胴は聖なる亀の突き出た口元に似ている。(?)】(亀の突き出た口元って丸いのかな?)

「盤似霊龜之・・・」は、“突き出た口元 ”としたがよく判らない。唐・徐堅の『初学記』また清・聖祖奉勅撰『淵鑑類函』等では、「盤似霊龜之觜[*]」と記されている。【[*]は虫へんに嶲 觜と二字でシケイ・ウミガメのこと】所謂「円体形は聖なるウミガメに似ている」と云うことであろうが、ウミガメの形そのものに喩えたこちらの方が納得がいく。上記の文章は唐・欧陽詢の『藝文類聚』から採ったものだが。

如意

※如意(図参照)―道教の僧が持つ道具でこれを振るとなんでも出てくるというもの。ただこの“如意“の文字は“妙意”となっている書物もある。(『初学記』等) そうなると 少し意味が違ってくるが“翠虬之仰首”とあるので“如意”のことのような気がするが。
※翠虬(すいきゅう)―伝説上の角のある翡翠色の小さな龍

これはなかなか興味深いもので、近世秦琴の棹頭が如意状になっているのは、すでにこのころから始まっていたのかもしれない。

 

         

明・王元貞、校『藝文類聚』巻四十四所収、晋成公綏「琵琶賦」  国会図書館所蔵より

 

又、孫該(?-261)の「琵琶賦」には 【惟素桐(嘉桐と記すものもある)之竒生于丹澤之北】ともあるので此の頃から胴体の腹板には桐が使われていたのであろう。

しかし、前記した西域各地の壁画の事例にも、また後記する北魏の様々な事例にも如意状の棹頭を持つものが見られないのは残念だが、この成公綏の「琵琶賦」と傅玄の「琵琶賦」とを合わせて考えると、今の私が演奏している秦琴とほとんど同形のものが、すでに晋代もしくはその少し以前に現れていたようである。
ただ四絃と三絃の違いはあるが、三絃のことは後で少し触れたい。

また、この時代の善弾琵琶者(この楽器を好んで弾く人とか、達人とかいうようなこと)としては、朱生(しゅせい)、阮咸(げんかん)、孫放(そんほう)、孔偉(こうい)、石季倫(せききりん)【この人は『世説新語』によれば洛陽の西北に“金谷園”なる別荘を作り、客があれば歌姫を侍らせる等して贅沢の限りを尽していたのだそうだ。そこでこの琵琶でも弾いていたのだろうか。】 等の人がいる。

ちなみに成公綏の「琵琶賦」に記された琵琶は次の様にも記されている。

臨樂則齊州之丹木 柱則梁山之象犀 批以玳瑁 格以瑤枝 若夫盤圓合靈太極形也 三材片合兩儀生也 分柱列位歳數成也 回窗華表日月星也【明・張溥の『漢魏六朝百三名家集』に収められている『成公子安集』より】

棹は斉州の丹木(紅木のことだろうか。『藝文類聚』では丹木となっているが、『初学記』『北堂書鈔』では丹桂となっている。丹桂ならばキンモクセイのことだろうが、“臨樂則齊州之丹木”のくだりは棹のことを指しているのかよく判らない。臨樂すなわち齊州は今の山東省と河北省の境の済南市あたりか。当時はこの辺りは紅木の産地であったかもしれない。)を用い、柱(フレット)は梁山の象の牙や犀の角から作られ、美しい“玉(ぎょく)”で仕切られている。腹板にあけられた音穴は(?)日、月、星、を表し輝いている。(螺鈿のようなもので縁取られていたのであろうか。)ー回窓華表日月星也ー。そして玳瑁(タイマイ)(鼈甲)の撥を使っていたようである。【※『藝文類聚』では" text02.gif 以玳瑁" text02.gif は批と同じで手で撃という意味。玳瑁を使って弾くということから撥(ばち)を使っていたことがわかる。ただ傅玄の『琵琶賦』には「素手紛其若飄兮・・・」以下の一文があるのでこれをもって当時から指で弾いていたとする説もある。】
また“批以玳瑁”を“飾以玳瑁”もしくは“摠以玳瑁”と解釈していることもあるので、“飾以玳瑁 格以瑤枝”は“べっ甲で飾られ細い玉で縁取られている”と云うことであろうか。これならば撥を用いていたことにはならない訳である。ただよく取り上げられる南京西善橋南朝墓の磚刻画に描かれている阮咸は明らかに細長い撥を持っているし、前記克孜爾の壁画は撥が描かれているものが多い。

【それにしてもこんな美しい楽器を私もほしいものだ!】

 

そして5~6世紀の南北朝の時代になると北魏を中心とする鮮卑族たる北朝にもその事例が多く現れてくる。

雲崗(うんこう)の石窟寺、麦積山(ばくせきざん)石窟、響堂山(きょうどうざん)石窟、遼寧輯安(りょうねいしゅうあん)古墓、また龍門の石窟寺等の浮彫りや様々な石刻画に、そしてまた、北魏の時代の仏像の光背に施された伎楽飛天にはこの楽器を持つものが多く見られる。【北魏時代の仏像展や写真等を見られる機会があれば、この楽器を持つ伎楽飛天を一つや二つ見い出すことができるかもしれない。それほど多くの事例があるのである。】

これらの事例を一つ一つ取り上げることはしないが、興味があれば簡単に見つけられるものです。
中国の図鑑としては、人民音楽出版社の『中国音楽史図鑑』、東方出版社の『追尋逝去的音楽踪迹』には多くの事例が載せられているので参照されたし。

どちらにも載せられていない事例を一つ。山東省博物館所蔵の北魏時代・正光6年(525)の「如来三尊立像」

上部飛天の左下から二人目 が漢式琵琶を持つ。

東京国立博物館「中国国宝展」より

 

又、南朝においては、南斉(なんせい)の王融(おうゆう)や梁(りょう)の徐勉(じょべん)等が琵琶詩を詠じ、南斉の褚淵は善くこの楽器を操り、武帝が皇太子の時、金糸で飾られ、銀の柱の琵琶を賜ったこと等が記されている。これらの琵琶を漢式型のものとするのは早計かも知れないが、2006年に泉州の安南市豊州鎭皇冠山で発掘された墓から、太元三年(378年)と刻まれた煉瓦が出土しそこに三絃や四絃の漢式琵琶の文様が彫刻されていたので、四世紀には已に漢式琵琶が南方に存在していたことが確認されている。【隋・唐時代参照】

また『通典』(巻百四十四絲五)には次のようにも記されている。

《梁史》稱侯景之害簡文也,使太樂令彭雋赍曲項琵琶就帝飲,則南朝似無曲項者

【梁史には侯景が簡文帝を殺し、太樂令の彭雋を使わせ曲項琵琶を持たせて帝の宴会に就かせた、とある。則ち南朝にはこれまで曲項琵琶は無かったようである。】

ようする、やはり南朝では曲頸四絃琵琶より漢式型琵琶の流行の方が早かったようである。