秦琴の歴史

漢代の琵琶の記述について

中国固有の楽器と思われている琴、瑟等もこのようなものだから、当然、直頸リュート系の弦楽器はこの時代にはまだ現れていない。春秋戦国を過ぎ、秦・漢の時代に入ると、はじめてこのリュート系(棹系)の弦楽器の存在を記した文献が現れてくる。

後漢・劉煕(りゅうき)の『釈名(しゃくみょう)』巻四釋楽器弟二十二、には次のように記され、

批把本出於胡中馬上所鼓也推手前曰批引手却曰把象其鼓時因以為名也

「琵琶はもともと西域から発祥したもので馬上で弾かれていた。手を押して前にするのを「批」後ろに引くのを「把」と謂い、その演奏するときに姿に因んで名が付けられた。」
 

また、応劭(おうしょう)の『風俗通義』聲音巻弟六・琵琶の条には

謹按此近世樂家所作不知誰也以手批把因以為名長三尺五寸法天地人与五行四絃象四時

「謹んで按ずるに、これは近世の楽家が作ったものであるが誰であるかは判らない。手で批、把するに因んで名が付けられた。長さは三尺五寸あり、天地人と五行に法っていてる。四絃は春夏秋冬を象っている。」と記され
 

趙岐(ちょうき)(?ー201)の『三輔決録(さんぽけつろく)』(五朝小説、訓誡家弟八冊巻九所収)“自随”の条にも次のように記されている。

楚遊上表乞宿衛拜駙馬都尉楚無学好遨遊音楽及畜歌者琵琶筝笛毎行将以自随

「楚遊は上表して宿衛を乞い駙馬都尉を拝命した。楚は無学にして遊び好きで音楽や畜歌なる者を好み、琵琶、筝、笛を出かける度に自分で持って行こうとした。」
 

そしてまた、六朝宋の劉敬叔(りゅうけいしゅく)(?ー470)の『異苑(いえん)』にも漢代の琵琶について次のような一節がある。

『校定 北堂書鈔』巻百十樂部六(明 陳禹謨 校併補注・萬曆二十八年 1600年序 」より。

異苑云永熹中李謙素善批把元嘉初往廣州夜集坐倦悉寝唯謙獨揮弾未輒(輟) 聞窓外有唱歌聲毎至契會無不擊節謙恠語日何不進邪對日遺生己久無宜干突始悟是鬼

「異苑云うには、永熹中(後漢の永嘉から熹平?)李謙は普段から琵琶が上手であった。元嘉初に廣州に往ったときのことである。夜に集まり座っていたが疲れて皆寝てしまった。ただ李謙一人だけが琵琶を弾いていると、窓の外に歌を唱う声が聞こえて来た。(その歌声は)始終(琵琶の演奏に)よく結びついて、はずすことがなかった。李謙は不思議に思って話しかけた。「どうして中に入ってこないのだ。」それに応えて云うには、「私は命を亡くしてすでに久しいから、(あなたの生命を)冒してはよろしくないのです」と。そこで初めて彼が幽霊であることを悟った」

(永熹中・・・・・・元嘉初)について-----『校定 北堂書鈔』や『淵鑑類函(えんかんるいかん)清・聖祖奉勅撰 』に引用された『異苑』の中のこの一節では「永熹(えいき)」中、としているが、『津逮秘書(しんたいひしょ)』や『学津討原(がくしんとうげん)』に収められている『異苑・巻六』ではこの「永熹」中を、晋「永嘉(しんえいか)」中、としている。(このようなことは中国の古い書物ではよくあることなのだが)
晋の「永嘉(えいか)」は307年~313年である。また「・・・元嘉(げんか)初往廣州・・・・」とある「元嘉」は後漢の「元嘉(151~152年)」と南朝宋の「元嘉(424~453年)」の2通りの解釈があるのだが、もし晋の「永嘉(307年~313年)」であるならば、どちらの「元嘉」でも年代に矛盾が出てしまう。
このようにとらえ『校定 北堂書鈔』に引用された『異苑』のこの一節を『異苑』の原本により近いものと考え、「永熹(えいき)」を後漢・「永嘉」から「熹平(きへい)」ー【145~177年】まで、「元嘉」初を後漢の151年とし、この一節を漢の出来事として取り上げた。また李崇智『中国歴代年号考』(中華書局 2004年)によれば、漢・145年の永嘉は永憙(永熹)であると、すでに清代に考証されているようである。

ちなみに、この『北堂書鈔』は、我が国には、ここに取り上げた 「明 陳禹謨 校併補注・萬曆二十八年序 刊本」のものと「清 孔廣陶 校注 光緒十四年 南海孔氏三十有三萬卷堂 據孫忠愍侯祠堂舊校景宋本重刊」のもの、そして北平圖書館舊藏善本謬片(マイクロフィルム)に収められている『大唐類要・即北堂書鈔』の三種類があるが、この「李謙素善琵琶」の一節は陳禹謨が校定のさい続補として取り上げた文章である。したがって宋本の重刊としている光緒十四年版にも、また『大唐類要』にもこの一節は入っていない。しかしいま問題にしているのは『異苑』そのものの文章なので『北堂書鈔』云々は関係しない。ただ陳禹謨 が萬曆二十八年前に校定補注した際にいかなる『異苑』から写したかが問題であろう。

このように漢代になるといくらかの書物に批把(琵琶)なる楽器の記述が現れてくる。この『釈名』、『風俗通義』、『三輔決録』に記された批把(琵琶)や、また『異苑』云うところの李謙が弾いていた琵琶はどのようなものなのだろうか。

応劭の『風俗通義』によれば、その大きさは三尺五寸とあり(漢代の一尺は前漢が22.5㎝、後漢が23.04㎝とすると、おおよそ79~81㎝位)、四時すなわち、春夏秋冬に象るがごとく四絃の楽器であったことがわかる。

この琵琶のことは晋の傅玄(ふげん)(217ー278)の「琵琶賦」の序にもう少詳しく記述されている。

傅玄の「琵琶賦」序は『宋書』巻19志第9楽1、 隋・虞世南(558−638)の『北堂書鈔』、唐・徐堅(じょけん)(659ー729)の『初学記』巻16、唐・杜佑(とゆう)(733ー812)の『通典(つてん)』巻144、等にも収められているが、その中でも杜佑の『通典』に収められている「琵琶賦」序がこの楽器の形体を一番詳しく記述している。そこにはこのように記述されている。

漢遺烏孫公主嫁昆彌念其行道思慕故使工人裁箏筑為馬上之楽今観其器中虚外実天地象也盤円柄直陰陽叙也柱十有二配律呂也四絃法四時也以方俗語之日琵琶取其易傳於外国・・・・・

【漢、烏孫公主を遣はして昆彌に嫁がしむ。其の行道を念(おも)ひ思慕す。故に工人を して箏筑を裁たしめ、馬上之楽と為す、今、其の器を観るに、中は虚にして外は実なるは、 天地の象(かたち)なり。盤円にして柄の直なるは、陰陽叙ぶるなり。柱十有二は律呂を 配すなり。四絃は四時に法(のっと)るなり。方俗の語を以て之を琵琶と曰ふ。其易(やす)きを取りて外国に傳ふ……】

これを少し詳しく話せば次のようになる。

【西漢帝国の武帝時代、北方西域にトルコ系の異民族国家”烏孫(うそん)”という国があり、その懐柔策として武帝の娘、すなわち公主をその王”昆莫(猟驕靡)”に嫁がせるわけだが、実は本当の娘ではなく、江都王劉建(こうとおうりゅうけん)(武帝の兄の子)の娘、劉細君を身代わりに嫁がせた。恐らく馬でゆっくりと何日もかけての旅であったのだろう。その道すがら二度と帰ることができない故郷を思い、淋しかろうと、武帝が音楽に詳しい知音者達に命じ、箏(そう)や筑(ちく)等の弦楽器を参考にしながら、馬上で奏でることができる楽器を作らせた。その楽器の形は天と地を象るごとく空洞な胴体を持ち、その胴と棹は陰陽のごとく、円形の胴体に棹はまっすぐに付けられており、また、棹に付けられた“柱”(フレット)は十二の律呂に配され、四時(春夏秋冬)に則るがごとく四絃の楽器であった。地方の俗語をもって琵琶と謂われ、扱い易い楽器だったので外国に伝わった。】

明・李元陽、校『通典』巻百四十四(国会図書館所蔵より)

 

楽器のおこりにしては伝説めいた話だが、その形体についてはかなり具体的に記されている。この記述 によれば、この楽器は円形の胴体を持ち、そこにはまっすぐな棹がつけられている。その棹には12個の 柱(じゅう)もしくは品、今で言うフレットだが、それが律呂(りつりょ)に配されている。古代中国では1オクターブを12に分け、それぞれ名称が付けられている。 
黄鐘(こうしょう)、大呂(たいりょ)、太蔟(たいそう)、夾鐘(きょうしょう)、姑洗(こせん)、仲呂 (ちゅうりょ)、蕤賓(すいひん)、林鐘(りんしょう)、夷則(いそく)、南呂(なんりょ)、無射(ぶえき)、応鐘(おうしょう)。

六律六呂というわけだが、それぞれ1律づつの音程のへだたりがある。律呂に配されているということはすなわち、約半音づつ【もちろん当時は三分損益(さんぶんそんえき)という方法で音程とっているので現在の平均律のような半音ではないが。】のへだたりでフレットが付けられているということであ ろうか(少し独断すぎるかもしれないが)。そして四條の糸が張られた四絃の楽器で、その大きさは前記 したように79~81㎝位というわけである。中国における直頸リュート系の弦楽器の原型がこの時つくられている。この琵琶を林謙三氏は「漢式型琵琶」とされているので以後そのように呼ぶことにする。

傅玄の「琵琶賦」序は、前記したように『宋書』『北堂書鈔』『初学記』『通典』をはじめ、後世のさまざまな書物に取り上げられ、曲頸琵琶とこの漢式型の琵琶とが混同して記されている書物も多い。

しかし、前記漢代の『釈名』や『風俗通義』に記され、また、『異苑』の李謙や『三輔決録』の楚が好んで弾いていたと記され、さらにまた晋・傅玄の「琵琶賦」にも言及されている漢式琵琶なるこの楽器は、当の漢代の画像石(がぞうせき)や画像磚(がぞうせん)、または漢代古墓の遺品等々においてもほとんどその事例が見当たらない。【遼寧省・遼陽の棒臺子屯の後漢代の古墓壁画に洋梨形の直頸琵琶、又同じく後漢代の四川・樂山虎頭湾崖墓にこれも洋梨形の直頸琵琶の画像石の事例があるのだが・・今のところこれくらいしか確認できてないが。】

            

後漢代の四川・樂山虎頭湾崖墓画像石      遼寧省・遼陽の棒臺子屯の後漢代の古墓壁画

巴蜀出版社『四川漢代画像石』より           『中国音楽史図鑑』より


追補ーまず、『風俗通義』にしても『釈名』にしても、又傅玄の『琵琶賦』にしても1800年程前のこれらの書物の内容がある程度正確に伝わっていると言う前提の話であるが。

『風俗通義』の応劭は生没不明だが、後漢、靈帝の中平代(184ー188)頃に在世している。又『釈名』の劉煕も生没不明だがこの書は後漢末に成ったものとされているから、この二書は殆ど同時代のものと考えてよいだろう。しかし『風俗通儀』では批把は近世の楽家が作ったもので、誰だか判らないと云い、片や『釈名』では胡中から伝わったものであると言っている。手を前に出すのを“批”後ろに引くのを“把”、それに依って名が付けられていると言うのは同じだが何故この二書の記述は違うものになっているのだろう。これらの“批把”は同じ種類の楽器であろうか。

『風俗通義』に記されている、三尺五寸を天地人と五行に喩えたりするのは恐らく『太玄経』の影響であろうか。“近世樂家所作”と言う様に此の「批把」は漢人の手に依る楽器となっている。ただこの「批把」を傅玄言うところの円体胴の「琵琶」と同じ種類の楽器であるとすれば、この「琵琶」が作られたとする烏孫公主の話は『漢書』西域伝烏孫条に依れば、武帝の元封年間(BC110ー105)の出来事なので『風俗通義』の後漢末までは二、三百年の時を経ている。とすればこの「批把」はかなり洗練された完成度の高い楽器になっているはずだ。その完成度の高い楽器をこの程度の記述にすると言うのが腑に落ちない。何故、円体胴のことも十二の柱のことにも触れていないのだろう。

それにもましてもし烏孫公主の「琵琶」の話が本当ならば傅玄よりも七、八十年程も前の『風俗通義』や『釈名』に取りあげられないはずはないと思われるし、又『漢書』巻九十六下“西域伝烏孫国”にもこの「批把」の話しが取り上げられていないことを見れば、やはり傅玄の話は付会であると考えた方が合理的であろうか。

このように考えれば後漢代の「批把」は円体胴形ではなく後漢代画像石の事例のように洋梨型の胴を持つ楽器で、後漢末当時には『風俗通義』云うように已に漢人の手に依って作られてはいたが『釈名』に記されている様に、元々は胡中(西域)あたりから伝わったものだと認識されていたのかもしれない。

また北宋末の郭茂倩『楽府詩集』の相和歌“四弦曲”に「李延年四弦」(李延年・前漢武帝時在世)と記されているように、前漢代には「四絃」と言われる楽器が“相和歌”に用いられていたようであるが、この「四絃」が『風俗通義』言う所の四絃の「批把」であると確定は出来ない。しかし「琴」「瑟」「箜篌」「臥箜篌」等の弦楽器で四絃のものは無いのでこの「四絃」は「批把」系の楽器である可能性が高いが、前漢代にはまだ「批把」と呼ばれず「四弦」と言われていたのかもしれない。【四つの弦楽器で演奏する曲という意味かもしれない。勿論、漢代から北宋までこの相和歌の名が正しく伝わって来たと云う前提の話しであるが】

そして晋代に入る前に円体胴のものが現れ、その楽器をして、傅玄に前漢武帝時代に作られたと謂わせたのかもしれない。傅玄の生きた時代には多くの事例がある様に円体胴の「琵琶」が流行っていた。その「琵琶」はまさに傅玄の『琵琶賦・序』謂うところの形体の物であった。こう考えれば、もしかしたら漢代の「批把」と晋代の「琵琶」とは別物かもしれない。
【また『釈名』の「批把」を梨型のものとし『風俗通義』の「批把」を円体型のものとする別物説もある。少し腑に落ちない所もありますが、興味の有る方は『中国音楽学(Musicology In China)』1993年第4期鄭祖襄「漢代琵琶起源的資料及其分析考証」を参照されたし。】

又少し穿った見方をすればこの様にも考えられる。つまり、傅玄の『琵琶賦』の記述が最初に現れるのが488年に成書した『宋書』(只これは宋の孝武帝の大明六年・462年に徐爰が作り上げ、沈約のものはこれを補ったもので「樂志」は6世紀初頭に成っている。「中国学芸大事典」)であるが、そこには次の様に記されている。

『宋書』巻十九 志第九 楽一

琵琶:傅玄琵琶賦日 漢遺烏孫公主嫁昆彌 念其行道思慕 故使工人裁箏筑為馬上之楽 欲従方俗語 故名日琵琶 取其易傳於外國也 風俗通云 以手琵琶 因以為名 杜摯云 長城之役 弦鼗而鼓之 並未詳執實 其器不列四廂

「琵琶: 傅玄の琵琶賦曰く、漢が(武帝)烏孫公主を昆彌に嫁がせる時、その道すがらの寂しさを思い、工人に命じ箏や筑などを使って馬の上で演奏出来る楽器を作らせた。地方の俗語に従って琵琶と呼ばれた。その扱い易さで外国に伝わった。風俗通云うには手を以て琵、琶とすることから名付けられた。杜摯云うには長城の労役の慰めに農民は弦鼗を弾いていた。それらは何れが真実なのか未だ判らない。その楽器は四廂楽歌には使われていない。」

この様に記され、ここには円体胴のことも真っすぐな柄のことも十二の柱のこともなにも記されていない。

そして隋・虞世南の『北堂書鈔』(610年頃)になると初めて『琵琶賦・序』として「盤圓柄直、四絃法四時」の記述が付け加えられ、唐・徐堅等の『初学記』(725年奉勅撰)では「中虚外實、天地象也」の記述が足されている。しかしここでもまだ十二の柱のことは記されてなく、傅玄の時代から500年以上の時を経た唐・杜佑の『通典』(766~801)になって初めて十二の柱の記述が加えられ、所謂傅玄の『琵琶賦・序』に成る訳である。

この様に書物よって段々と記述が付け加えられていることを考えると、傅玄の『琵琶賦』には本当に最初から「盤圓柄直」とか「十二柱」の記述が記されていたのだろうか、と疑いたくもなる。
『宋書』の『琵琶賦』では上記のように公主が烏孫に嫁いだ時に楽器が作られ地方の俗語で「琵琶」と呼ばれた、と云う様なことしか記されていない。このことを考えると、もしかしたら漢代に現れたとされる「批把(所謂「漢式形琵琶」)」のイメージを、円体胴・直頸・十二柱としたのは、隋・唐の時代に作り上げられて仕舞ったものなのかもしれない。
後世もし漢代の遺跡から円体胴の「琵琶」の事例が発見されたならば漢代の琵琶はもっと詳しく解明されることであろう

ただ、洋梨型のものは後記する嘉峪関の壁画に三弦のものがあるが、後漢代の画像石の事例の一つ(棒臺子屯)は四絃のような気もするので『風俗通儀』や『釈名』の「批把」はいわゆるペルシャの「セタール(setar)」と同系統とも言い難いであろう。

嘉峪関魏晋三号墓に描かれた三弦の洋梨型胴の琵琶

甘粛人民美術出版『 嘉峪関酒泉魏晋十六国墓壁画』より

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