秦琴の歴史

はじめに

秦琴の源流を訪ねるには、取りも直さず、中国音楽に直頸型リュート系(棹系の)弦楽器が、いつ頃、いかにして登場し、そして発展してきたかを探らなければならない。

中国音楽史上において、伝説以外に具体的な音楽の痕跡が最初に見られるのは、7000年~8000年程前に揚子江流域に発達した、河姆渡(かぼと)文明の遺跡で発見された骨哨(こつしょう)であろう。これは狩猟の時に使われた道具であろうと思われるが、音自体を楽しんだこともあっただろうし、明らかに楽器の形体を持ったものもある。

そして時代は少し下って、黄河流域の仰詔(ぎょうしょう)、馬家窟(まかよう)等の遺跡からは壎(けん)や陶鐃(とうにょう)等が発見されているが、夏(か)の時代を過ぎ殷(BC1700~1050年)から周の時代に入ると青銅器文化が盛んになり、その遺跡から数多くの青銅器の鐃(にょう)や鐘(しょう)、鎛(はく)等が発見されている。

この時代の音楽は「金石の声」とも言われ、これら青銅器の楽器のほかに磐(けい)といわれる石の楽器や竹、葦等で作った簫(しょう)―排簫(はいしょう)―等が中心であった。
【この他に塤(けん)や篪(ち)等の笛類、笙、そして数々の太鼓類も使われていたし、この時代の音楽はもちろんこんな一言で済むようなものではないが。】

秦・漢以来、郊祀、宗廟雅楽であたり前のように用いられ、中国固有の楽器として古代では瑶琴や秦筝ともいわれ、神農(じんのう)や伏義(ふくぎ)が作ったとされる、琴(きん)や瑟(しつ)等の弦楽器は郭沫若(かくまつじゃく)氏に言わせれば、春秋初年頃に現れた外来の新進楽器で【近年では曽侯乙墓(そうこういつぼ)等が発見されているので少し時代は遡るかもしれないが】、河南の安陽から出土した無数の殷代の亀甲獣骨文字にも、殷・周二代の合わせて五千種以上の青銅器の銘文にも全然その痕跡がないそうである。