- 2011年1月 1日 00:00
「あけましておめでとうございます。今年も皆様幸せでありますように」
今年の年賀状です。
ちなみに年賀状の右に書いてある漢文を解説しましょう。新年早々こ難しい話しですいません!
若言琴上有琴声 若し琴上に琴声ありと言わば
放在匣中何不鳴 匣中(こうちゅう)に放(お)くに何ぞ鳴らざる
若言声在指頭上 若し声は指頭の上に在りと言わば
何不於君指上聴 何ぞ君が指上に於いて聴かざる
(蘇東坡集続集「十」巻二、“琴詩”より)
この言葉は陶淵明(365~427)の『無弦琴』の故事が前提になっています。唐の648年に編纂された『晋書』第六十四巻(隠逸)の「陶潜伝」にはこんな事が記されています。「陶潜」は陶淵明の名です。字を淵明と云います。
----性不解音、而蓄素琴一張、弦徽不具、毎朋酒之會、則撫而和之、日「但識琴中趣、何労弦上聲」----
【 陶淵明の本来の性質は音楽を理解しなかったが、飾りのない琴を一張たくわえていた。その琴には弦も徽もなかった。親友と飲む集いのたびに、いつもその琴を撫でながらこれに和し、言った。「琴中の趣を知ってさえいれば、どうして弦の出す音に煩わされることがあろうか」】
この「但識琴中趣、何労弦上聲」(ただ琴中の趣を識れば、何ぞ絃上の聲を労(わずら)わす)と云う一句は、つまり陶淵明には琴を弾かなくても、琴の趣を判っているので、弦が張られていない琴の妙なる音が聞こえる、と云う訳です。このことから陶淵明の『無弦琴』の故事が出て来ているのですが、これを蘇東坡(そとうば 1036~1101) が上記の様な詩を作って皮肉ったのです。
絃が張られていない琴の妙なる音が聞こえるのなら、どうして箱の中の琴がひとりでに鳴らないのだ。弾かなくて音が聞こえるのなら、どうして君の指から音が聞こえないのだ。こんな風に皮肉っているのです。
『無弦琴』の故事は一つの音楽の本質的な話しですが、演奏家から言わせてもらうなら、弾いて、弾いて、弾いて、そのまた先の先に「音無き音」が聞こえて来るのです。音楽にその身を捧げなければ、音無き音の妙音なぞ聞こえて来るものではありません。
三途の川を渡る時、遥か天空の雲間から、カランカランと聞こえて来るのです。
2011年 元旦 今年も皆様幸せでありますように
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