障害は誰にも起こりえた

  • 2016年7月28日 23:25

障害は誰にも起こりえた。『我が一族は、過去にもこれからの未来永劫にも、障害者は一人も出ない』、こんなことが云える人間は一体どこにいるというのだ。私は幸運にも五体満足に生まれ落ちて来た。それは誰にも起こりえた障害を、彼等・彼女達が私達の身代わりとなって引き受けてくれたからだ。全く自身の意思に関係なく、私達の身代わりとなって、彼等・彼女達は障害を持って生まれ落ちて来た。誰にも起こりえた障害を、私達の身代わりとなって、彼等・彼女達が引き受けてくれているのだ。

人間を含め生命はすべて繋がっていて、一つの大きな「塊」のようなもので、地球を一つの生命体と捉えれば、地球の生命活動であるすべての自然現象は、単体で起きているものは一つもなくすべてが繋がっている。雨が降るのは、ただ雨が降っているのではない。何かの原因で空気の寒暖が起こり、雲が出来、雨が降る、すべての現象は繋がっている、これを仏教では『諸法無我』と云っている。

私達人間も大きな命のつながりの中に障害を持っている人もいれば、五体満足な人もいる。もちろん障害を持っている人は生きにくく生活もままならない。当然に社会全体で懸命に支えてゆかなければならない。障害は誰にも起こりえた、そのことを忘れてはならない。そして、彼等・彼女達は私達の身代わりになっていることを決して忘れてはならない。

重度精神障害者の施設で8年の間をおいて二度演奏したことがあります

ある人の「縁」で、私は、重度精神障害者の施設で8年の間をおいて二度演奏したことがあります。最初はまだCDも出していない頃で、インド音楽の様に地べたに座って演奏してました。施設の小さな板の間の会場に、記憶は不確かですが、保護者の人に付き添われた30人程の障害者の子供達がいたように覚えています。当然演奏で起きたことはふつうのコンサートとは全く違います。

音が出た瞬間に、ワーッと子供達がなだれ寄って来て、床置きのスピーカーにしがみついたまま離れない子、私のすぐ真ん前に来て、ジッと私を見つめ目が合いそうになるといきなり顔を真横にそむけて硬直したように動かなくなる子、私の横にあった打楽器を叩きまくっている子、体を動かして止まらなくなる子、・・こっちはもう関係なく即興演奏をするしかないです。施設の人に後で聞いたのですが、こう云う刺激はとっても良かったそうです。帰るときに自閉症(?)の10歳くらいの子が私の手を握って自分の頬に押し付けて離してくれませんでした。

それから8年後にもう一度演奏しました。小さかった子はずいぶん大きくなっていましたが、誰が誰だかもうかわかりません。その時の演奏の記憶はよく思い出せませんが、彼等の障害は重度で治療を施せば少しはよくなるのものではなく、当然一人では社会には出られません。大きくなったそんな彼等を施設の職員の人達は日々、介護をし、施設の運営を話し合い、まさに格闘をしながら働いていました。私にはとても出来ません。

現在、政府の福祉関係の行政の方向が、施設を減らし、家族に委ねる方向に向かっているようですが、全く逆で、現場の人数を増やしを彼等の待遇をもっと手厚くする方向に予算を使ってほしい。そんな政府が出来てほしい。

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