- 2021年12月10日 13:00
何故かふと、画家・高島野十郎を思い出し、調べてみたら昨年が生誕130年ということで今年は全国で巡回展が催され、柏市民ギャラリーが8月8日で終わり、高崎市美術館で9月5日~11月7日まで開催されていた。今年展覧会が催されているとは知らなかった、高島野十郎を知ったのは20年以上前になると思う、大月の長応寺でよく練習をしていた頃、お寺の離れに住み着いていた人から聞いた。心の片隅にあって時折思い出したりするけれど、展覧会は見たことがなかった。今年の展覧会を知らず、残念な気もするけれど、知っていても行けたかどうか判らない。
しかし、何故かふと思い出したのは不思議だ。
* wiki ---------------
蝋燭の画家として知られている高島野十郎、1890年(明治23年)に久留米市の醸造家の家に生まれ、中学卒業後、東京美術学校進学を希望するも父親に許されず、名古屋市の第八高等学校に進学し、東京帝国大学農学部水産学科を主席で卒業し、2、3年大学に残り助手を務めたが、家業を継がず独学の画業の道に入った。
岸田劉生と一つ違いだが、岸田劉生の華やかな交友関係とは違い自ら画壇とは距離を置いた。兄弟らの援助で北米経由欧州独・仏・伊へ旅立ち、1933年(昭和8年)に帰国した後は久留米の実家に戻り、酒蔵をアトリエとし「椿柑竹工房」と名付けた。1935年(昭和10年)に博多・中洲の生田菓子舗で滞欧作品展を開催し、翌年上京して北青山に住んだ。
太平洋戦争敗戦直前の1945年(昭和20年)5月、空襲により青山を焼け出され、福岡県八女郡豊岡村(現・八女市)の姉スエノを頼り、裏山の作業小屋をアトリエとした。
戦後1948年(昭和23年)に再び上京し、青山南町に知人の世話で住み着く。しかし昭和30年代に入り1964年東京オリンピックに伴う道路拡張計画に巻き込まれ都内のアパートを転々とし、1960年(昭和35年)に千葉県柏市増尾にアトリエを設けた。
古希老人の独り暮らしであった。水道も電気・ガスも通じていない、9坪ほどの小屋であったが、静かな一帯に満足した高島は「ここはパラダイスだ」と来訪した姪に語った。この頃の柏はまだ森や田畑が多く残り、夜は暗く、高島は好んで月を画題とし、「月ではなく闇を描いている」とも語っていた。
これと前後してささやかな個展を開く一方、東北、秩父、小豆島、京都、奈良など各地を放浪、増尾のアトリエも立ち退きを余儀なくされるが、1971年(昭和46年)1月に同地の知人伊藤家屋敷内のアトリエに落ち着く。傘寿を過ぎていた。1975年(昭和50年)に入り体調を崩して病床につき、6月柏市の田中農協病院に入院。翌月に退院した後、同じ千葉県の野田市にある特別養護老人ホーム鶴寿園に入所するも、病魔に勝てず9月、心不全で死去。享年86。
1980年(昭和55年)に福岡県立美術館で「近代洋画と福岡展」が開催、同県出身の有名画家に混じり無名の野十郎の作品1点『すいれんの池』が日本ゴム株式会社の出品によって展示された。当時新人学芸員の西本匡伸はこの絵に強烈な印象を覚え、高島の生家や親族・知人を回って散逸した作品76点を集め、1986年(昭和61年)秋、同館にて「高島野十郎展」を開催して注目を集めた。
その後、NHK「日曜美術館」で放映され全国的に知られるようになり、晩年を過ごした柏市(2003年)のほか、東京都三鷹市(2006年)などでも展覧会が開かれ、同年のテレビ東京、2008年(平成20年)には再度NHKでも取り上げられて俄然脚光を浴びるに至った。
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