「五弦琵琶」のこと

  • 2010年11月 8日 16:24

「五絃琵琶」について基本的なことを書いておきます。

楽器についての講釈は興味がない人にとってはあまり面白い話しではありませんが、まぁ、雑学と思ってお付き合い下さい。

我が国の三味線や琵琶などの弦楽器はそのほとんどが中国から伝わった楽器です。その中国に於いて、このように抱えて弾く弦楽器はその成りたちに於いて、三種類の系統に分けることができます。

そこで、この話しを進める前に以下の言葉を確認しておきます。それは、「直頸(ちょっけい)」と「曲頸(きょっけい)」という言葉です。例えば、曲頸琵琶(きょっけいびわ)と云う言い方をします。これは棹と転手(てんじゅーすなわち絃巻き)の部分が直角に曲がって付いている琵琶のことを云います。我が国の雅楽で用いられている楽琵琶(がくびわ)とか薩摩琵琶(さつまびわ)や筑前琵琶(ちくぜんびわ)等ですね。ですから直頸琵琶とは棹と転手(てんじゅーすなわち絃巻き)の部分が真っ直ぐ付いている琵琶と云うことになります。

三種類の話しに戻りますが、その系統の一つは楽琵琶(がくびわ)に代表される、四絃で洋梨型の胴を持つ曲頸琵琶の系統です。この曲頸琵琶はその源流をペルシャ(ササン朝ペルシャ)に求めることが出来ます。もう一つは、僕の弾いている楽器である「秦琴」にも繋がる、直頸で円体の胴を持つ琵琶です。これにはすでに1700年程前から四絃のものもあれば三絃のものもあります。この琵琶は今の所、漢人の手に依ってその原型が創られた、とされています。そして最後の一つは、現在では「正倉院」に一面しか残されていない、直頸で洋梨型の胴体を持ち、五絃の「五絃琵琶」です。この「五絃琵琶」はインドにその源流を求めることが出来るのです。

「五絃琵琶」の原型はインドでは2〜3世紀ごろの浮彫にその事例をすでに見ることが出来ます。

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【 2〜3世紀ごろの、アマラーヴァティー出土の浮彫 】


これが中央アジア、シルクロードを経て中国に伝わって行くのです。今の新疆ウイグルの庫車(クチャ)あたりに紀元前2〜3世紀ごろから「亀茲(きじ)」と云う国がありました。国と云っても人口が8万ほど都市国家です。この亀茲国は仏教国だったのでインドから大きく影響を受け、楽器はそのほとんどがインドからもたらされたものです。インドから発生した「五絃琵琶」もこの亀茲国に伝わりました。キジルの石窟には今も多くの壁画が残されています。

【 4世紀 キジル38窟 天宮伎楽図・五絃琵琶の図 】

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そして中国にはシルクロードを経て5世紀後半ごろに南北朝時代の北魏(ほくぎ)に伝わっています。「亀茲(きじ)」から伝わったので「亀茲琵琶(きじびわ)」とも呼ばれ、隋・唐時代おおいに栄えました。

【 7世紀 唐 李寿(りじゅ)墓の線刻と壁画 】

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左から3人目の伎女の持っている楽器が「五絃琵琶」表示←ここをクリック

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左から2人目が「五絃琵琶」表示←ここをクリック

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もちろん手前の2人目が「五絃琵琶」です。


そして、8世紀初頭の唐の時代に日本にもたらされ、聖武天皇の遺品として、今尚「正倉院」に伝わっているのです。もちろん、前にも書きましたが、世界中でこの一面しか残されていません。

「五絃琵琶」の名手としては、唐・貞元(ていげん 785〜804)に趙璧(ちょうへき)と云う人がいましたが、この人は、五絃が自分なのか自分が五絃なのか判らないと言ってました。楽器と一体化していたんですね。9世紀末の昭宗(しょうそう)の時代あたりには五絃の名手として、馮季皋(ひょうきこう)と云う人の名が『楽府雑録(がふざつろく)』に書かれています。また、唐の盧綸(ろりん 779〜804)の詩中に、「玉鼻琵琶五色絲・・・・」とあります。玉鼻と云う人が五色の絲を張った五絃琵琶を弾いていたのかも知れませんね。

そして「五絃琵琶」にまつわる話しに、もう一つ日本の音楽にも影響を及ぼしている出来事があります。それは日本の「雅楽」の六調子(りくちょうし〜現在雅楽に用いられている六種類の調のこと)に関しての話しです。

6世紀の中頃に、阿史那(あしな)と云う、突厥(とっけつ〜外蒙古のトルコ系の種族)の王女が、中国の北周(557〜579)の武帝に嫁いで来ます。その時「亀茲琵琶(きじびわ)」すなわち「五絃琵琶」の名手の蘇祗婆(そしば)と云う亀茲人を連れて行ったのです。その蘇祗婆(そしば)が 「七調五旦」と云う音楽理論を中国に伝えました。その七つの調の名前は次の通りです。娑陁力(さだり)、雞識(けいしき)、沙識(しゃしき)、沙侯加濫(しゃこうがらん)、沙臘(しゃら)、般贍(はんせん)、俟利けん(しりけん〜『けん』と云う文字は、たけかんむり、に建)。このような名が付けられていました。この音楽理論と名称が玄宗皇帝の時代に確立された「俗楽二十八調(ぞくがくにじゅうはっちょう)」に取り入れられ、それが現在の我が国の「雅楽」の六調子に伝わっているのです。

例えば、般贍(はんせん)→唐の般渉調(ばんしょう)→六調子の般渉調(ばんしき)、また、雞識(けいしき)→唐の大乞食調(だいけつしき)→六調子の大食調(たいしき)等。このように、蘇祗婆(そしば)の「七調五旦」の音楽理論やその名称が、遥か東の果ての日本にまで伝わり、今尚用いられている訳です。

このほかにも「五絃琵琶」に関しては、柱(じゅう〜フレット)の付き方が琵琶と異なっていることや、現在は五個付いている柱(じゅう)は、実は元は四個ではなかったのか等、興味深い話しもありますがこのくらいにしておきます。

また、「正倉院」の楽器の調査に関しての本は次の二冊がありますが、もう古本屋でしか手に入りません。神田などの古本屋でもし見つけた時は手に取って見て下さい。

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昭和39年初版 林謙三『正倉院楽器の研究』

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昭和42年発行『正倉院の楽器』

蔵版:宮内庁
編集:正倉院事務所
発行:日本経済新聞社

 

 

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