1990年、荻窪 新星堂練習ホール『Dancing Crickets』カセット音源

  • 2019年12月27日 00:18

1990年 荻窪 新星堂練習ホール 『Dancing Crickets』 カセット音源

 

秦琴の源流を尋ねるには、取りも直さず、中国音楽に直頸型リュート系(棹系の)弦楽器が、いつ頃、いかにして登場し、そして発展してきたかを探らなければならない。

3世紀の傅玄『琵琶賦』を信ずれば、直頸の棹に柱(フレット)がついた丸い胴体の琵琶(批把)呼ばれた四弦の楽器が漢代に現れた訳であるが、書物の記述にも疑問が残るし、実際の事例も今の所無いようである。

この漢式琵琶の実際の事例が多く現れてくるのは、少し時代が下って3~4世紀の魏・晋代になってからである。亀茲(きじ)の遺趾のキジル石窟の壁画や嘉峪関酒泉魏晋墓壁画等、西域各地にこの種の楽器の事例が多く現れ、4〜5世紀になると南方の泉州で発掘された煉瓦に刻まれた画や、南京西善橋古墓に描かれた竹林七賢の一人阮咸の磚画などの事例が確認出来、100年の間にその事例は西域から南方にまで広がっている。

隋、唐代になるとそれらは総称して「秦琵琶(しんびわ)」と呼ばれ隋、唐当時のものは「秦漢子(しんかんし)」とも号されていた。そして唐代中期頃になると、その形体が一回り大きく変化し「阮咸(げんかん)」と呼ばれるようになる。

阮咸はその後、阮(げん)阮琴(げんきん)、月琴(げっきん)などとも呼ばれ、その土地土地の音楽や習慣等に影響され、様々な大きさ、形、絃の数の楽器に変化しながら、宋、元、明、清と伝承されてゆく。そして少なくとも清の康熙帝(1662~1722年)の頃には現在の「秦琴」とほとんど同形の如意状の棹頭を持つ三絃の楽器が再び現れてくる。この楽器は現在の「秦琴」の最も卑近なルーツといってもよいだろう。

「秦琴の歴史」本編へ
http://akifukakusa.com/shinkin_new/history.html


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