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やっと『絃子記』の由来が判りました。

  • 2010年02月20日
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やっと『絃子記』の由来が判りました。今迄随分勘違いをしてました。なんとかここまで判りました。今度また、京大人文科学の漢字センターに行ってきます。それで多分完璧です・・・?

ちょっと難しいですけど一応、書いておきます。「全文解説」の前文にするものです。

 


「絃子記の三絃」

ー前文としてー

あ る時、私の演奏している楽器「秦琴」の歴史を調べている中で、偶然に柳宗元撰の『絃子記』と云う小さな著作を見つけた。どのように見出したのか今ではまっ たく憶えていないが、確か「国会図書館」で別の書物を探している最中だと、記憶している。「絃」と云う文字が気になって中を見ると面白いことに絃楽器の話 しであった。この『絃子記』不分巻は我が国には四書あり、『唐人百家小説・偏録家』と『欣賞編 (明・沈津)』に収められ、『欣賞編』が「前田育徳会」「公文書館」 「東京国会図書館」に、『唐人百家小説』は「逢左文庫」に収蔵されている。(注1) ただこれらの四書は同一の版木から刷られた可能性が高く、「前田育徳 会」以外は確認済みである。


『絃子記』は、唐・ 柳宗元撰、潘之恒閲とされていて、一応柳宗元の撰としているが、その中に校閲者である潘之恒の文も入っている。初めに「箏郭師」の一編があり、次に校閲者 である潘之恒撰とする「附馬手樂」、それから撰者名が記されていない「提琴」、そして最後にこれも又撰者名が記されていない「三絃」の四つ話しからなる小 さな著作である。この為、柳宗元が『絃子記』と云う書物を著したのか、また後になって別々になっていたこの様な絃楽器の話しを一つに纏めてそれを『絃子 記』としたのか、はっきりしない。もし後者であるとしたら、潘之恒撰の「附馬手樂」が入っているので恐らく校閲者である潘之恒であるとも考えられるし、ま た潘之恒撰とする「附馬手樂」以下の撰者が記されていない「提琴」「三絃」も潘之恒が撰したものとも思えて来る。

というのは、宋・晏殊 (字叔)の『類要』一百巻・巻二十九の「絲音」に「柳子厚以箏郭師墓誌云無名生善能(鼓)十三絃其為江(『絃子記』は事)天姿獨得推七律三十五調切 密・・・・・・・絲聲均其所自出屈折愉繹学者無能知自去乳下(『絃子記』は不)近葷肉以是慕浮圖道」の一文が記されていて、それは『絃子記』の「箏郭師」 中の文章と一致している。すなわち「箏郭師」は宋の時代明らかに柳宗元の文とされていたのである。晏殊の生没は、991年~1055年なので柳宗元のほぼ 200年後の人である。たかだか200年で著者名の錯誤が起きるとは思えない。従って『絃子記』中の「箏郭師」一編は確かに柳宗元の文なのである。

「箏郭師」一編は確かに柳宗元の文なのであるが、一編しかなかったので、それ故他の三編を加え、それを柳宗元撰の『絃子記』としたことは多いに考えられる。柳宗元撰の『絃子記』ならば、「箏郭師」の次に、附(付け加え)と記してあっても、潘之恒撰の「附馬手樂」が一編だけ混ざっている事は非常に不自然であるし、「三絃」と名の付く楽器が唐の時代に存在していた可能性はあるが、「提琴」と云う楽器が存在していた可能性は殆どない。その様なので、まず潘之恒の著作を探ってみると、『亘史鈔』雜篇―巵言・ 巻八、『亘史』(天啓版)の雜篇巻五「文部」、及び『鸞嘯小品』巻二中に「附馬手樂」以下の二編を見つける事が出来た。(注2)「三絃」は「絃鞉―即今之三絃 為張聘夫作」と題して、「提琴」は「縣解―為楊仲修提琴作」と題して、「附馬手樂」はそのまま「馬手樂」と題して三編とも収められていた。即ち『絃子記』は、潘之恒の『亘史』から上記三編を抜き出し、標題名を変え、柳宗元撰の「箏郭師」と合わせ、唐・柳宗元撰、潘之恒閲としているものであること判った。

 ただ、潘之恒自身がそのようにしたのではなく、何者か が、唐・柳宗元撰、潘之恒閲の『絃子記』とした可能性が高い。なぜなら、後記の「解説」でも触れるが、『絃子記』中の「三絃」の文と『亘史』の「絃鞉―即 今之三絃 為張聘夫作」の文とを比較すると、一部分変わっていてしかも誤字になっている。潘之恒自身が『絃子記』を校閲したのならば、このような誤りをす るとは思われないからであるし、またおそらくは『絃子記』は潘之恒の死後に出来上がったものと思われる。上記『亘史』の文の副題に「―即今之三絃 為張聘 夫作」と記されているように、この「三絃」の文は潘之恒が三絃奏者張聘夫なる者に捧げたものなのである。その文が変わりまた誤字にもなっていることを潘之 恒自身が許すはずも無いと思うからである。

したがって、『絃子記』は、潘之恒の死後乃ち天啓 2年(1622)以後、若しくは上記『鸞嘯小品』が刊行された崇禎元年(1628)以後、何者かが、潘之恒の『亘史』から上記三編を抜き出し、標題名を変え、柳宗元撰の「箏郭師」と合わせ、唐 柳宗元撰・潘之恒閲として、我が国にあるものでは『欣賞編 (明・沈津)』と『唐人百家小説・百四十四巻』の「偏録家」に組み入れたもと考えられるのである。ちなみに、『明文海』巻百四十六に、「絃鞉―即今之三絃 為張聘夫作」の文が、少し文章を省いた形で標題名「三絃・潘景升」として収められている。(注3)

中国では、いま判る限りでは、『絃子記』は『説部新書 三十二種・四十六巻』という書物に収められていて、南京図書館に収蔵されているが、中国の『欣賞編 (明・沈津)』には『絃子記』は収められていない。ただ「上海図書館」蔵の『重訂欣賞編』には『絃子記』一巻が収められているようである。台湾では「傅斯年図書館」の『綠牕小史四十七種四十八巻』にも収められている。また『説部新書 三十二種・四十六巻』は我が国には見当たらず、『欣賞編 (明・沈津)』に対する「四庫提要」の批判からしても、(注4)年代からしても当然『欣賞編 (明・沈津)』の編纂当初から『絃子記』が収められていた可能性は殆どない。(注5)

このように謎多い『絃子記』であるが、その中から今回取り上げる「三絃」は、乃ち『亘史』や『
鸞嘯小品』に収められている標題名「絃鞉—即今之三絃 為張聘夫作」であり、潘之恒が三絃奏者張聘夫に捧げた文であり、明代の「三絃」に繋がると潘之恒が考えている「絃鞉」についての文なのである。

潘 之恒は、字景升といい、徽州・歙県の人である。嘉靖 35年(1556)に生まれ、天啓 2年(1622)に亡くなっている。嘉靖年間に中書舎人になっている。商家に生まれているが、若い時から汪道昆、王世貞に師事し、湯顕祖、屠隆等多くの知 識人と交遊があった。戯劇の演出も手がけ、嘉靖~萬暦年間の多くの著名演者と交わりその伝記も残している。とくに妓女について書かれたものも多く、『恒 史・外紀』には彼女達についての多くの文が残されている。潘之恒のことは「潘之恒生平考述」(鄭志良―南京大学・2000年)、「潘之恒研究」(張秋嬋―蘇州大学・2008年)、「潘之恒結社活動考論」(張秋嬋―蘇州大学・2009年)、「亘史与兩拍」(韓結根―復旦学報・2004年)等多くの研究論文がある。また汪效倚・輯注の『潘之恒曲話』にも年表等も付いて詳しいのでそれらを参照されたい。

今、この「三絃」を読み、また判る限りの楽器的解説をして、明の時代の絃楽器の状況の一端を垣間見、またその当時を生きた潘之恒の音楽感にも触れてみようと思うのである。

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