「天地人」って良く云いますね。大河ドラマじゃぁないですよ。楽器に関して云えば、例えば古来中国では四絃の楽器の四本の絃を『象四時』(四時に象る)と云って、四つの季節、要するに春夏秋冬に喩えますが、三絃は良くこの「天地人」に喩えられます。大河ドラマの「天地人」も当然もとは中国のこの「天地人」の概念から来ています。
ですから「秦琴」の三本の絃も 「天地人」と云う訳ですが、この「天地人」の概念はいつ頃から中国に出てきたのでしょう。
天地人を易に取り入れて、新しい占易法を展開したのは、前漢末期の揚雄という人の『太玄経』ですが、 天地人という概念自体はもちろんそれ以前から在った訳です。僕は、「金文」(つまり中国の古い青銅器に刻まれた文字ですね)の研究はまったく門外漢で知識がありませんので、とりあえず書物の方面の話を簡単にしたいと思います。
周の時代に成ったとされている『国語』という書物があります。そこの『周語下』にこんな記述があります。
王將鑄無射 問律于伶州鳩 對曰 律所以立均出度也 古之神瞽 考中聲而量之以制 度律均鍾 百官軌儀 紀之以三 平之以六 成於十二 天之道也
「王 (景王)が将に無射の鐘を鋳造しようとして、楽官の州鳩に律のことを問うたので、彼は答えて云った。律は均を立てて度量衡を定める所のものです。古は神瞽が中和の音を考え、之を割り出し制定し、百官はこれを基準にしました。三を以て之を紀し、六を以て之を平し、十二と成り、これ天の道です」
こんな感じです。要するに「律 」は音律のことで古では度量衡の元になっていました。六は乃ち六律六呂で、十二は十二律です。そして、「紀之以三(三を以て之を紀し)」の文を呉の韋昭が注して、三を「天地人」としています。天神、地祇、人鬼を舞って人と神とが和するとしています。
ただ日本の学者の方々は「三分損益」のこととしていますが、僕もそのようだろうと考えます。ですから書物の上では周代に確かに 「天地人」の概念が存在していたとは云い切れません。
前漢末期の揚雄の『太玄経』 以前に「天地人」が具体的に記されている書物としては、董仲舒(とうちゅうじょ・紀元前176年? - 紀元前104年?)の『春秋繁露』と云う書物があります。その「立元神」に次の様な記述があります。
・・・・天地人 萬物之本也 天生之 地養之 人成之 天生之以孝悌 地養之以衣食 人成之以禮樂 三者相為手足 合以成禮 不可一無也 ・・・・
「・・・天地人は万物の本である。天は之を生み、地は之を養い、人は之を成す。天は孝悌を以て之を生み、地は衣食を以て之を養い、人は禮樂を以て之を成す。三者は手足のようである。合わさることに依って禮が成る。一つとして無くしてはならない・・・・」
このようなことで、君子のありようが説かれています。「天地人」の書物上の記述としては恐らくこの『春秋繁露』が一番古いと思われますが、概念自体は当然それ以前から存在していたと思います。とにかくこの『春秋繁露』から『太玄経』に伝わり、そして後漢末になると楽器に関する記述として、応劭(おうしょう)の『風俗通義』にこの様に記されています。
謹按此近世樂家所作不知誰也以手批把因以為名長三尺五寸法天地人与五行四絃象四時
「謹んで按ずるに、これは近世の楽家が作ったものであるが誰であるかは判らない。手で批、把するに因んで名が付けられた。長さは三尺五寸あり、天地人と五行に法っていてる。四絃は春夏秋冬を象っている」
このように、三尺五寸の三を天地人としています。この天地人の記述は『太玄経』の影響が強いと、僕は考えています。ちなみにこの記述は「琵琶」という楽器に関するものでは一番古い記述の一つです。ここの「琵琶」は現在の「琵琶」とは違います。むしろ「秦琴」に近い楽器ですよ。
このように「天地人」の概念は、はっきりと、いつ頃どのように出来上がったとは云えませんが、已に紀元前二世紀頃には確かに書物上に現れ、それは今日まで脈々と伝わり、まぁ日本の「大河ドラマ」の題名にもなっている訳です。
ただ、当然「秦琴」が三絃になっているのは 「天地人」の概念に法っている訳ではなく、三本の絃を「天地人」に喩えているに過ぎません。